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日蓮大聖人・池田大作

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第二章 宇宙と人間の「根本法…  

「宇宙と仏法を語る」(池田大作全集第10巻)

前後
1  “祈り”ということの意義
 ―― これまでは「総論的」な面から論じていただきましたが、次は、どういう角度から入っていただけますか。
 池田 そうですね。木口さん、どうでしょうか。
 木口 そうですね……。「仏法」は「宇宙」とどうかかわっているか、という点はどうでしょうか。
 池田 わかりました。
 ―― その次は、どうでしょう。
 池田 いま、世界的に話題になっている「E・T」(地球外知的生物)と、「宇宙の平和」というような観点からも、おもしろいのではないでしょうか。
 ―― ぜひ、お願いいたします。
 また「人間の生死」、仏法で説かれる「成住壊空」という問題の次元にも入っていただきたいと思います。
 池田 よくわかりました。
 それでは、そういうことを念頭におき思索し、勉強しながら展開していきたいと思います。
 木口 まえに名誉会長から、アインシュタインの「宇宙的宗教感情」は、人間の「祈り」にも通ずるというお話がありましたが、この「祈り」という課題も、宗教の第一義の問題になると思いますが……。
 池田 そのとおりです。
 ―― この「祈り」ということで、先日、おもしろい話を読者から聞きました。
 鹿児島県の内之浦から、人工衛星の打ち上げが何回かありましたが、あるとき、発射準備がすべて完了しているのに、気象条件が悪く打ち上げが延期になった。
 もうこれ以上延びると中止というとき、当時の東大宇宙航空研究所をはじめ、日本を代表する科学者のメンバーは、みんなで近くの神社に出かけて、真剣に祈ったそうです。(笑い)
 木口 よくやりますよ。(笑い)
 ―― 「祈る」とは、どういう意味になるのでしょうか。
 池田 そうですね。「祈る」ということは、仏法では「南無」する、ということです。その「南無」とは、「帰命」と訳する。その「帰命」とは、宇宙それ自体の“根本法”に合致しゆく姿といえるでしょう。
 すなわち、その根本法を仏が一幅の「漫荼羅」とされた。それに南無し帰命することによって、大宇宙の外なる法則と、己心の内なる法則が完全に合致し、さらに人生、生活が、正しいリズムにのっとったものになるという、とらえ方になるでしょうか。
 木口 なるほど……、たとえば、水を化学反応でつくるにしても、水素二つプラス酸素一つが水の方程式になりますが、そこに、変化することのない物質を媒介させる。つまり白金黒という触媒をおかなければ、現実の水にはならない。
 次元はまったく異なりますが、また、こんな表現が適切かどうかわかりませんけれども、ひとつの媒介として本尊があるというのもわかるような気がします。
 池田 そういう意義からいうと、この神社参拝は神頼み的であり、いわゆるアインシュタインの言った「宇宙的宗教感情」の次元とは、ちょっと違うのではないでしょうか。(爆笑)
2  仏法では祈る対象が最も重要
 ―― 「漫荼羅」とは、普通には「本尊」となるわけですね。「祈り」の対象としては……。
 池田 そのとおりです。
 本尊とは、根本尊敬という意味です。また、本尊とは梵語でマンダラといいます。訳して「功徳聚」「輪円具足」ともいわれています。
 ―― 一般的に、「祈る」という行為のなかには、人間の精神のいちばん奥深いところを、最大限に高揚していく働きがあるようですが。
 池田 そうですね。動物にその姿はない。祈りは人間の最も尊い行為だけに、仏法では祈る対象が、最も重要になります。
 いわゆる祈る対象の「本尊」は、千差万別であり、高低、浅深がある。回教の祈りは宇宙の、全知全能の創造主「アラー」に、「アラーは偉大なり」と祈ります。
 聖典『コーラン』(イスラム教の教典)によると、アラーは人間に処罰、報復する恐ろしい力ももつといいます。キリスト教やユダヤ教では、「ヤーウェ」を超越神とします。
 ―― ドイツの哲学者フォイエルバッハは、キリスト教の“神”を、たんなる観念上のものとし、その存在を否定し、神の根拠を人間のなかに求めていますね。
 池田 その問題は、別の機会にゆずりましょう。
 “祈り”の対象は、宗教によってさまざまありますが、高等仏教では、「文」「理」「現」の三証の完璧な裏づけをもった、最高にすぐれたものを「本尊」とすべきである、と仏は断言しておられる。
 ―― その神社が、どこの神社か知りませんが、たとえば八幡神社であれば、八幡がまつられている。この八幡などは、仏法ではどうみていますか……。
 池田 日蓮大聖人の御本尊のなかには、宇宙に実在するものすべてが、図顕されているのです。この八幡については、一般には幡織りの神として、あるいは農耕の神として、日本では、古くから全国的に信仰されていた。
 一説には、八幡の「八」とは、「法華八軸」という意味にとる場合がある。
 また「幡」の「巾」偏は衣装という意味で、旁の「番」は「米」と、「田」という字を書きます。
 これは、米穀の類であるということで、「幡」という字には、衣食二つの恩徳がある、というものです。
 御本尊には、この神も諸天善神のひとつとして図顕されています。
 これは、自己の一念に内在する善法のあらわれを示している、と考えられるわけです。
 木口 なるほど。
 「祈りと本尊」と「科学と宇宙」という組み合わせは、いままで、本格的に追究されたことはありませんね。
 池田 そのとおりです。そのほか、御本尊のなかには、外なる宇宙に実在する生命、天体の運行、調和を図る存在の代表として、大日天、大月天、大明星天等々が、同じく図顕されています。このように、すべてが深い意味にもとづいているのです。
 ですから漠然たる祈りでは、「外なる宇宙」と、「内なる宇宙」との「一念」による深き感応はない。
 木口 いわゆるシャーマニズム的な自然崇拝では、浅い祈り、浅い対境となりますね。
3  「生命とは何か」を解明している高等宗教
 池田 そのとおりです。私どもの信仰する仏法の「祈り」とは、根本尊敬の最極の当体である本尊に「南無」することです。「御義口伝」という御文には、「南無とは梵語なり此には帰命と云う」――こうあります。
 また、梵語の「ナマス」が、仏法では「帰命」ですが、帰礼とか恭敬、帰趣とか敬礼、救我、度我等々にも訳されていますね。ともかく「身・口・意」の「三業」という人間の、一切の生命活動が、「祈り」の一念の姿に総結集します。
 木口 「祈り」ということについて、それほど多くの「言葉」があるとは知りませんでした。
 ―― すると「祈り」とは、人間の生命の、最高の発動ということでしょうか。
 池田 そのとおりです。
 ですから祈る対象の「本尊」が、重要となってくるのです。
 日蓮大聖人のあらわされた漫荼羅の御本尊は、「功徳聚」ですから、「祈りのかなはぬ事はあるべからず」(「祈祷抄」)というのは当然なのです。
 ともあれ、さきほどのエピソードは、科学というものに限界のあることを、まざまざと、みせている感じがしますね。
 天文学といい、科学というも、元来、生命の故郷から、無限の、神秘の時空に挑戦していく学問といえますから、どうしても、内なる生命の内奥に迫ることが、同じく必要となってくるのではないかと思います。
 木口 そのとおりだと思います。宇宙の科学は、たしかに進歩してきたが、ただいえることは、科学で解明できる問題のみを扱ってきた点を、そして、解明できない部分を無視してきた点を、知らなければならないと思います。
 池田 その解明できない分野が、生命の問題ではないでしょうか。
 木口 まったく、そのとおりです。
 池田 現代社会ではこの生命を明快に解明しゆく高等仏教までも、数多くの宗教と並列されて、すべてが非合理的なものとして、邪魔もの扱いにされてきたむきがある。それは、大きな過ちであり、アーノルド・トインビーをはじめ、偉大なる知性として人類的な規模で貢献をしてきた学者が、最後に志向しているのは、いわゆる高等宗教への次元になっている。
 その意義から、大乗仏教をはじめとする高等宗教というものに対する真摯な探究の必要性が迫られている時代に入ったといえないでしょうか。
 この一点にめざめないかぎり、最も重要な人間性の完全なる覚醒、完全なる文化の昇華はありえない、と私は思っています。

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