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日蓮大聖人・池田大作

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「生命の発生」をめぐって  

「第三の虹の橋」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

前後
1  池田 モスクワ大学の出身でソ連アカデミー・バッハ記念生化学研究所の所長を歴任されたアカデミー正会員のオパーリン博士は、ソ連の生んだ偉大な科学者の一人であり、その「生命の起源」の研究は科学の歴史に金字塔として輝いています。
 ところで、博士は第二次大戦後、四度日本を訪問され、わが国に友人も多く人々から親しまれた方でした。最後の訪日は亡くなられる五年前の一九七七年四月、京都で開かれた第五回「生命の起源」国際会議の時であったと記憶しております。博士は腎臓病の治療を受けながら演壇に立たれ、最後まで立派に役目を果たされ、その強い責任感と精神力は人々に感動とともに大きな勇気を与えました。
 その日本における国際会議のさい、オパーリン博士は、M・S・クリツキー博士の代読ではありましたが含蓄に富む記念講演をされました。
 そのなかで博士は「前細胞」に関する仮説「コアセルベート説」を含め「生命の起源」に関する研究全般を展望されたうえで「われわれは実験のなかで、生命の誕生へと結びつく進化の基本原理である原始的な自然選択のあり方を知ることができた。しかし、このような人工モデルと実際の原始生物との間にはまだ大きな開きがある。今後はより精緻な実験によって仮説と実際の原始生物とのギャップを埋めていかねばならない」という趣旨の話をされました。科学者としての遺言ともなったこの講演で「生命の起源」解明の決着は後世に宿題として遺されることになったと思うのです。
2  オパーリン博士の仮説には三つの重要な論点があると思います。第一点は、無機物から有機物へと進む「化学進化」の可能性を指摘したこと、第二点は「前生物進化」の過程として、コアセルベートの存在を指摘したこと、第三点は最初にできた生物は外界から有機物を取り込んで生きる従属栄養生物であったと指摘していることです。
 第一点と第三点については、その後の科学者の手によってその可能性が立証されておりますが、第二点については、いまだにコアセルベートから生物が生じたという確証は得られておらず未決着のままとなっております。
 そこで、おうかがいしたいのですが、現在、ソ連では、こうした「生命の起源」に関する研究がどこまで進んでいるのでしょうか。その現状と課題についてお聞かせ願いたいと思います。
 次に、オパーリン博士の仮説は生命発生への基本的過程を解明してくれておりますが、しかし、まだそこには数多くの謎があります。
 たとえば、生物のタンパク質の中にL型アミノ酸しかみられないのはなぜか、ということです。さらに地球上に無数ともいえる生物が発生しているにもかかわらず、まったく同一の遺伝暗号をもっているのはどのような理由によるものか、ということも興味深い事柄です。
 そこで二つの推測が成り立ちます。一つは原始地球上のあちこちに、さまざまな型の生命が発生したが、自然淘汰によって最終的には現在のような安定した型のものが残ったのではないか、とする考え方です。一部の物理学者の間では、D型よりL型のほうが、わずかではあるが安定しているという見解があるとも聞いています。
 もう一つの推測は、生命の発生という確率的に起こり得ないような現象がたった一回起きた。その最初のものがたまたまL型で、その後、それが優先的に増殖・進化をつづけたのではないか、という考え方です。これは、ご承知のとおり「偶然説」の根拠となっているものです。
 いずれの考え方もそれなりに合理性をもっていると思われますが、ソ連の学者はどのような考え方を支持されますか。またそれは、いかなる理由からでしょうか。物理学者としての博士の所見をおうかがいしたいと思います。
3  さて「生命がどのようにして発生したか」については物理化学的な側面から、今後さらに解明されていくと思います。私は、そこで一歩視点を変え「なぜ、希有の存在としての生命が発生したのか」という点に光を当ててみたいと思います。この「生命の起源」の問題について、私は仏法の観点から次のように考えています。
 すでに述べましたように、仏教は「縁起論」を基礎とします。これは「縁って起こる」ということで、あらゆる存在というものは「何かを縁として起こり、生じてくる」という説です。つまり、すべてのものは初めから一つのものとして単独で存在したわけではない。そのものを現在の形にならしめたのは、無数の「因」と「条件」が相互に関係し合うなかで初めて現れた結果であるということです。縦には時間的な相互関係、横には空間的な相互関係が無数に絡み合う。これは「縁」の関係性の側面です。その連関の糸が絡み合うなかで一つの事物が存在化していく。これは「起」の動的な側面です。
 このように、仏法で説く「縁起」は、生命を含む宇宙万物のダイナミックな実在の世界を示したものであると私は考えています。この観点から「生命の発生」をとらえますと、原始地球上で生命を「生命」として存在せしめるためのすべての要因と条件、いわゆる「縁」が整えられることによって「起」としての生命の発現という動態が顕在化していったと考えられます。
 現実に地球上に生命が誕生したという事実こそは、生命の発生のための要因と条件が整ってくれば、いずれの場であろうと生命は姿を現すということを示しています。その意味で、この広大な大宇宙のなかで、地球以外の天体にも生物が存在すると考えても不思議ではないと思います。

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