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日蓮大聖人・池田大作

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伝統と近代化  

「第三の虹の橋」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

前後
1  池田 いずれの国家、社会においても、近代化(進歩)をめざしていく場合、これまで引き継いできた伝統的なものをどうあつかうべきか、という課題につきまとわれるものです。当然、近代化は社会全体の繁栄にとっても、一人一人の幸福にとっても望ましいと考えられるからこそ行われるわけですが、近代化に熱中するあまり、無関係な伝統的なものは忘れ去られることがあります。また、時には、近代化を妨げるものとして、伝統的な建物、施設や習慣が排除されることもあります。
 明らかに有害無益なものが排除されるのはしかるべきであるとしても、無益であるが有害ではなく、しかも、人間の精神的な面から見ると、それなりに益をもたらしているものが、直接的、経済的利益がないからという理由で簡単に排除されてしまうとすれば、これは残念なことと言わなければなりません。
 人類の文明は、絶え間ない創造と革新の歴史といってよいでしょうから、もちろん、破壊が世を覆った例は無数にあり、この問題は、いつの時代にも、いずれの社会でも起こってきました。しかし、革新、近代化がとくに急速で、全国民を巻き込んでいくところで、とりわけ激しく起こる問題であることは当然でしょう。
 日本でも、遠くは六世紀、仏教の受容をめぐって伝統と近代化の確執がありましたが、近いところでは、一八六〇年代以後の近代西洋文明の流入にともなって現れたのが、最も大きいものであったといえます。しかし、さらに深刻なのが現代の事態であり、おそらくこれからの時代はますますこの問題が重要になるでしょう。
 貴国において、伝統と近代化というこの思想的・文明史的課題が激しく問われたことは、日本人に親しまれているロシア文学にも反映しているようです。それが、一八三〇年―四〇年代に起こったスラヴ派と西欧派との論争であったといえると思います。
 スラヴ派は土俗的伝統主義であり、西欧派は近代的改革を推進しようとした派です。ロシアをビザンチンの正統者として“第三のローマ”に見立てた十六世紀の思潮を引く伝統派の、過度のメシアニズムは、私たち日本人には、とうてい理解しがたいものがありますが、それはともあれ、この両者の対立のうちでは、西欧派のなかでもベリンスキーやゲルツェンらの革命的民主主義がロシア革命につながっていったといえますが、十九世紀末から二十世紀初頭における革命指導者のなかから伝統派が台頭し、むしろこちらが主導権を握るにいたります。革命後、トロツキーのような極端な西欧派が敗れ去ったのが、その象徴といえましょう。
 私が考えますには、レーニンやスターリンははるかにロシアの土俗性を重んじた、あるいは、彼ら自身の内に土俗性を体現していたといえるようです。レーニンが「われわれは民族的誇りの感情で一杯だからこそ、農奴制の過去を憎むのだ」と言ったことはあまりにも有名です。
 こうした、スラヴ派と西欧派との関係史をめぐって、そこから、広く、伝統と近代化を、どう融合させていくかについて、総長は、どのようにお考えになっていますか。
2  ログノフ 文化、思想、社会生活における伝統と近代化の相関性という問題は、あなたが正しく指摘されているように、全人類文化を存続・発展させていくうえで重要であり、とりわけ興味深い問題です。あなたが、他ならぬロシア社会思想史にかかわる問題の側面に関心をおもちのようですので、若干、私見を述べさせていただきます。
 スラヴ派と西欧派の論争そのものは、あなたのご指摘のように、十九世紀の三〇―四〇年代のことです。しかし、それは、この種の問題の最初の論争ではなく、遠くは、十一世紀キエフ・ルーシ(ロシアの古名)国家の全盛期にまでさかのぼります。
 以下、伝統と近代化に直接、かかわりをもつ人々の名をあげてみましょう。それは、十五―十六世紀のマクシム・グレーク、十六世紀のイワン雷帝、十七世紀のユーリィ・クリジャーニチ、十八世紀のフェオファン・プロコボーヴィチ、改革者王ピョートル一世、モスクワ大学の創立者ミハイル・ロモノーソフ、アレクサンドル・ラジーシチェフ、十九世紀二〇年代のバーヴェル・ペステリなどでした。
 もし近代化を総じて社会的刷新と解するならば、この用語は当然すべてを包含するものであり、無限の意味合いをもちます。「近代化」なる概念はおそらく、具体的な歴史的文脈においては一定の社会的内容をもっていると思います。たとえば、十六世紀にイワン雷帝が遂行した近代化と、十九世紀初頭に革命家デカブリストのペステリがめざした近代化との間に違いがあることは明らです。あなたが使われた近代化という用語をスラヴ派と西欧派の論争に適用するかぎり、スラヴ派と西欧派はともにかなりひかえめな近代化論者であり、貴族・地主的な自由主義の色彩の濃い社会刷新の支持者であったといえます。したがって、彼らの間の論争は十九世紀前半という一定の社会的・歴史的枠組みをもったものでした。
 ところが、西ヨーロッパやアメリカで出版されているロシア文化史関係の文献ではスラヴ派と西欧派について、若干拡大された解釈が認められます。それは、そもそもスラヴ派と西欧派の年代的枠組みを二十世紀にまで広げ、そのうえ、革命的民主主義者まで西欧派に加えている点で、これは史実に合っていません。事実は、かつてのスラヴ派と西欧派はロシアにおける農奴制廃止をもたらした一八六一年改革の前後にはともに穏健な改良主義者として、一致して革命民主主義的傾向に反対したのです。
3  池田 スラヴ派と西欧派はいずれも穏健な改良主義者であって、これをソビエト革命を成し遂げた人々と同一視してはならないということですね。もちろん、社会主義思想の系譜のうえからは、そのとおりでしょう。
 ログノフ 革命的民主主義者は、革命的農民層のイデオローグとして農民革命を呼びかけながら、西欧派にも、スラヴ派にも反対して行動したのです。他のヨーロッパ諸国より遅れて資本主義の影響を体験した一八六〇年代のロシアでは革命的農民層の思想は、フランス大革命において革命的ブルジョアジー(資本家階級)の思想が演じた役割に近い役割を果たしました。
 その後、ロシアがすでに帝国主義期に入った二十世紀初頭に穏健派ならびに保守派のブルジョア・イデオローグは、当時明らかな時代錯誤と見られていたスラヴ派・西欧派的思想を復活させようとしてむなしい努力を試みました。ロシアの社会・政治体制を根本から変えないかぎり、「近代化」は考えもおよばないものとなりました。レーニンは、このことに関連して、一九一三年、「今のロシアではいかなる改革も不可能というのがさしあたっての情勢である」と書いています。
 マルクス主義以前のロシア共同体の解釈についていえば、私たちにとって身近なのは、共同体における平和な勤労生活よりも家父長制・君主制を理想化したスラヴ派的見解ではなく、革命的民主主義者、なかんずくチェルヌィシェフスキーの見解です。他ならぬ彼こそ、農村共同体の勤労的、集団主義的、自然発生的な社会主義傾向を強調したのです。
 もちろん、ロシアが農村共同体を通して社会主義に移行するというチェルヌィシェフスキーの考えは空想的なものでした。しかし、資本主義の道を通らずに社会主義に発展していくという思想そのものは正しかったのです。その思想を科学的社会学の立場から提起したのは、周知のように、マルクス、エンゲルスであり、レーニンでした。十月社会主義大革命以後この思想は現実的に立証されました。多くの国と国民が資本主義的な発展段階を経ずに社会主義の建設に移行しました。

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