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日蓮大聖人・池田大作

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ソ連における東洋と西洋  

「第三の虹の橋」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

前後
1  池田 東洋と西洋とは、人類文明の長い歴史を通じて、基本的な二つの、異質の流れを形成してきました。この二つの流れは、相互に異質であるだけに、さまざまな点で対立もしてきた反面、互いに与え合うものも多く、その対立と交流が人類文明の内容を、まことに多彩にし、豊かにしてきました。
 もちろん、地球全体を見た場合、人類の文明は、東洋文明と西洋文明だけには収まらない、それぞれに注目されるべき豊かさをもった流れもあります。アメリカ大陸に栄えたマヤ、アステカ、インカの文明、アフリカ大陸の黒人たちが生みだした文明等がそれです。しかし、これらは、いずれも、他の異質の文明等と交流することがなかったため、その盛期を過ぎると衰滅してしまいました。
 さらにまた、東洋文明、西洋文明といっても、それぞれに多様な内容を包含しており、個々に見れば、はたして、東洋文明、西洋文明といった概括が可能なのかという疑問さえ、提起されうるでしょう。その点は私も認めますが、なおかつ、明らかに「東洋文明」「西洋文明」としてとらえうるものが、そこにあると考えるのです。
 たとえば「東洋文明」といった場合、極東の中国文明などがあり、インドの文明、古代ペルシャ文明などがあり、それぞれに別の個性をもっています。また「西洋文明」も、古代のギリシャ文明、ローマ文明から、中世のキリスト教の文明、そして近世・近代にいたっては国民的性格を反映して、フランス文化、ドイツの文化、ロシアの文化、スペイン、イタリア文化等々、多様性を示してきています。
2  しかし、いわゆる「東洋」の内部においては、古代からペルシャとインドの間には民族的起源を同じくする者同士の密接なつながりがあり、インドと中国、そして日本の間にはインド発祥の仏教の流伝によって結ばれた深い融合意識があります。他方「西洋」のほうも、ローマはギリシャ文明をとりいれ、中世ヨーロッパは、このギリシャ、ローマの文明的所産をキリスト教とともに受け入れました。
 ともあれ「東洋」と「西洋」は、ギリシャとペルシャの戦争に代表されるような対立と相克、アレキサンダー大王によるヘレニズム帝国に代表される融合、占星術や製紙法に代表されるような文化の伝播等々を繰り返しながら、互いに刺激し合って、豊かな発展を示してきたのでした。現代においても「西洋」は「東洋」から、「東洋」は「西洋」から学ぶことのできる、あるいは、学ばなければならないものが、たくさんあります。そして、それによって人類の文化は、ますます豊かになり、平衡のとれたものになっていくことが期待されます。
 そうした観点に立った場合、ソビエト連邦はとくに重要な位置を占めていると考えざるを得ません。というのは、ソビエトこそ、「東洋」と「西洋」にまたがった巨大国家であり、そのなかには「西洋」の文明に培われた人々も、「東洋」の文明を伝えている人々も含まれているからです。たんに、人々を含んでいるという点では、アメリカ合衆国も、まさしく人種と文化の坩堝ですが、ソビエト連邦は、人々だけでなく、土地をも包含しています。
 ソビエト連邦を構成する十五の共和国のなかには、ロシア民族以外に数十の民族が含まれています。ウクライナ民族、カザフ民族、キルギス民族、タタール民族、ユダヤ民族その他、たくさんの民族で構成されています。ロシアは帝政の時代から西はヨーロッパ・ロシアから東は太平洋岸にいたるまでの広大な地域を領有し、そうした多民族を統合・支配してきました。そして、十月革命後も、ロシア人が中心となって他の民族を統合しているようですが、ソ連政府は、他の民族に対してどのような施策を行っているのでしょうか。
3  ログノフ あなたが言及された民族問題は、私の観点からも、きわめて重要な問題です。ソビエト国家は誕生以来一貫してこの問題に大きな注意をさいてきました。
 あなたと私の対話が、多民族国家・ソビエト連邦の結成六十周年に始まった点を考慮に入れて、わが国における民族問題解決の歴史について少しばかり詳しく述べることは時宜にかなっていると思います。
 一つの国には一つの憲法しかないというのは当然のことのように考えられていますが、ソ連ではそうではありません。わが国には全連邦の憲法のほか、さらに三十五の連邦構成共和国や自治共和国の憲法が存在しています。
 今日のソ連邦機構の基礎を築いたのは一九一七年十一月七日(旧暦では十月二十五日)に遂行された十月社会主義大革命でした。革命後、第一回全ロシア・ソビエト大会はロシア社会主義連邦ソビエト共和国の結成を宣言しました。この共和国がソ連邦の原型となったのです。わが国の最初の法律文書の一つとなったのが「ロシア諸民族の権利宣言」(一九一七年十一月二日)でした。この「文書」は一切の民族的特権や制約の廃止、旧ロシア帝国に居住するあらゆる民族の平等と主権を宣言しました。この「宣言」によって各民族の自決権が確立されたのです。
 池田 それは非常に大きな変革だったわけですね。帝政ロシア時代の文学作品には、少数民族の反乱がしばしば取り上げられています。このことは彼ら少数民族がいかに虐げられていたかを物語るといえます。
 ログノフ 一八九七年の国勢調査によりますと、旧ロシアにはロシア人のほかに百四十五のさまざまな民族、亜民族・人種的グループが数えられ、その数は全人口の約五七パーセントを占めていました。帝政ロシアは非ロシア人の権利を侵害しただけでなく、彼らをけしかけて互いに反目させました。とくにひどい目にあったのは国の辺境地方、すなわち中央アジアやコーカサス、そして極北地方に住む人たちでした。これらの原住民はロシア貴族と地方貴族の双方による二重の圧政に苦しみました。こうした辺境地域は旧ロシア国土の五分の四を占めていたのですが、工業は全国のわずか八パーセントしかありませんでした。
 非ロシア人の大半は自分の民族語で新聞、雑誌を出版したり、自分の言葉で教育を受けたりすることを禁じられていました。多くの民族は文字すらもっていませんでした。
 少数民族の抑圧は宗教面にもあらわれていました。一切の特権がロシア正教会の手に握られ、カトリック、ユダヤ教、イスラム教、そして仏教は、あらゆる手段で権利が侵害されていたのです。
 一九一七年、人民委員会議(閣僚会議)は異教徒へのアピールを発表し、あらゆる民族の信仰や慣習は自由かつ不可侵であると宣言しました。

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