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日蓮大聖人・池田大作

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大学の未来はどうあるべきか  

「第三の虹の橋」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

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1  池田 人間教育という一連のテーマにおいて忘れることのできないのが大学教育の問題です。二百年以上の伝統をもつモスクワ大学は、ソビエト連邦のみならず、世界各地で活躍する人材を数多く輩出してきました。そこから巣立っていった世界的な人材も多数にのぼっています。それに比べて創価大学は開学(一九七一年)して日も浅く、モスクワ大学から見ると、孫のような存在です。ただし、私も創立者として、二十一世紀を開く英知の人材を育む人間教育への熱情は強くもっているつもりです。
 そこで、広い意味での大学教育のあり方を考える時、それは、受けた知識を自国内で活かすだけの専門家の養成に限定されてはならないと思います。大学の使命はそれぞれの国の学術・教育・文化興隆の母体となって人類文明の発展に貢献していくとともに、人道主義に立脚した人類共同体創立に貢献しうる人材養成の平和のフォートレス(要塞)たることにあるということです。
 ログノフ 大学の使命に関連して、私は、ソ連の大学が平和を愛する心、祖国愛、文化を守る心をいかに大事にしてきたかを指摘するとともに、ナチス・ドイツの侵略に抗してモスクワ大学がこの苦しい時期に果たした役割について申し上げたいと思います。これは一九四一年のことですから約半世紀も前のことですが、私たちにとっては決して遠い過去のことではなく、今の本学の教師や学生の心の中に生きている精神なのです。
 池田 よくわかります。ソビエトの人々にとっては、あのドイツ・ファシズムに対する戦争ばかりではなく、さらに百年さかのぼったナポレオン戦争すら、生々しく人々の心の中に息づいていることは、モスクワ市内を歩いてみても、ましてやボロジノの古戦場あたりを訪れても、痛いほどわかります。
2  ログノフ ナチス・ドイツとの戦争においては、開戦の当初からモスクワ大学の教員と学生はすべてのソ連人と同様、戦時のテンポで生活し、働きました。早くも一九四一年の七月に大学のコムソモール(共産主義者青年同盟)は他の大学の学生と一緒に学生部隊を編成して、モスクワへの進路にあたるロスラブリ東方の地区で防御陣地の構築に着手しました。作業は一日十二時間交代でした。敵がスモレンスク市に突入したとの報を受けてからは日中だけでなく、夜も働きました。
 生存者の話によりますと、学生たちの愛国心の盛り上がりはたいへんなもので、彼らは休息とか睡眠、食物とか飲み水といった言葉さえ忘れてしまうほどでした。塹壕の土掘り作業は一日七立方メートルと、平時のノルマ四立方メートルに比べてとても困難なノルマでしたが、ある学生などは二十二立方メートルも掘り出したのです。
 池田 一九三九年九月一日にはナチス・ドイツは背信的にポーランドに侵攻し、わずか三週間で首都ワルシャワを落としてしまいました。ポーランドは主権国家として存在しなくなりました。
 一九四一年六月には、ドイツが不可侵条約(一九三九年八月に結ばれた)を破ってソビエトへ進撃を開始し、同年九月にはキエフを占領、十月にモスクワ近郊にまで進撃してきました。セバストポリを占領したのが一九四二年七月で、八月にはスターリングラード(現サンクト・ペテルブルグ)に突入してきたのでしたね。
 当時、ドイツは、西部戦線では一九四〇年にイギリス軍をダンケルクから撤退させ、パリを陥落させて破竹の勢いでした。
3  ログノフ ソ連国民、知識人、学生のすべてがロシアの文化・教育の中枢としてモスクワ大学が担っている大きな役割や意義をよく認識していました。ですから、開戦の日から、モスクワ大学がプラハ、ワルシャワ、ソルボンヌの各大学その他ヨーロッパの多くの高等教育施設がたどったような悲劇的運命をたどらないようにするため、あらゆる措置がとられました。
 新聞は、一八一二年のナポレオン侵略軍との戦いにモスクワ大学の学生がすべてのロシア国民と一緒に立ち上がった故事を報道しました。十月革命につづく国内戦争ではモスクワ大学の多くの教員や学生が最前線で戦い、若いソビエト連邦共和国を死守し、その独立を守り通しました。こうした輝ける伝統をモスクワ大学は大祖国戦争の厳しい時代にも継承し、教員や高学年の学生のほとんど全員が、ソ連軍、国民義勇軍の隊列に馳せ参じ、あとに残った学生は戦時法に従って祖国解放の戦いに献身したのです。
 池田 第二次大戦の時は、日本でも大学生は学徒動員で徴兵され、戦線に送られましたが、地続きで攻めてくる優勢な敵を迎え撃つ苦しみは、私たち日本人には想像もおよばないものでしょうね。
 ログノフ ご存じのようにモスクワにとっていちばん苦しかった時期は一九四一年の十月でした。十月十三日にドイツ軍は攻撃の主力をモスクワに向けたのです。月半ばにモスクワに通じる街道沿いで激しい戦闘が始まり、極度の危険が迫りました。モスクワでは戒厳令が敷かれました。
 モスクワ大学は当時は今と違って市の中心部にあり、戦争のため、モスクワ大学の教員、研究者、学生の大半、それに多くの教育施設や図書を疎開させる必要が生じました。ソ連政府は大学をアシハバード市(中央アジア、トルクメン共和国の首都)に疎開させることを決定しました。疎開は計画に従って行われました。それでも、モスクワにおける大学の生活は寸時も中断されませんでした。モスクワに残った教員や学生は建物の警備にあたり、敵機の爆撃に備えて消火本部を設置し、授業をつづけました。
 一九四一年十月二十九日、ドイツ空軍は二〇〇キロ爆弾を大学の建物に投下し、教室棟、ゴーリキー図書館、心理学科の建物やクラブを破壊しました。その日の深夜、ドイツ軍の爆撃機が一機マネージナヤ広場(クレムリンに隣接)上空に侵入したのです。爆弾の炸裂によって図書館の屋根がはぎとられ、窓やドアが飛び散りました。教員と学生は堆雪の中から本や教材を取り出し、瓦礫を取り除き、全力をあげて学術図書を守りました。火災が起こり、建物が倒壊の危険にさらされ、上下水道、送電設備の損傷で歩行さえできない有様でした。目撃者は、あのような蛮行は心の痛みなしには見ることができなかったと語っています。
 それでも、ソビエト人は負けませんでした。敵の攻撃の一つ一つが彼らに新たな勇気を与えたのです。このようにして戦争の最初の日々からわが国の抵抗力が培われ、蛮行と人間憎悪の勢力に対する困難な勝利が鍛え上げられていったのです。

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