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日蓮大聖人・池田大作

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社会変革と人間革命  

「第三の虹の橋」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

前後
1  池田 現代の世界では、社会を変革することが、その社会に生きる人間を変革させ、向上と完成への道を歩ませる要件であるとする考え方が支配的です。とくに社会主義は、ここに基盤を置いて発展してきたものですが、今日では、自由主義を標榜する社会においても、情報操作や管理化が、社会のさまざまな部面に入り込んでいます。
 精神分析学や心理学の発達とマス・メディアの利用によって、権力者は人々の心を簡単に操作することができます。今すでに、そうしたことが行われているとは言いませんが、それが簡単に行われる危険性は、とくに先進文明社会ほど、ますます高まっていることは事実です。
 こうして、現代社会においては、人間が、無意識のうちに、他者によって左右される危険性が強まっています。危険であるという理由は、人間はみずからの意志で自身を律するところに尊厳性の大事な基盤があり、これは、この人間の尊厳を脅かすことになるからです。
 管理主義強化の傾向は、日本の場合、中学や高校の教育の場にも顕著になっており、たとえば、服装や髪形についてまでも、画一化が行われる風潮があります。あるいは、教科内容についても、教師が教えたとおりの答えをテストで書かなければ、客観的に見ればその答えが誤りでなくても、誤りとして減点されるという例も少なくないようです。このことは生徒たちの自由な思考を抑圧してしまうことになりかねません。
 人間には、周囲の環境に自分を合わせよう、社会的に定められた基準に自分を従わせて、摩擦を少なくしようとする傾向もあります。したがって、社会を変えれば人間も変えうるという場合も決して少なくないわけです。しかし、そうした周囲の基準にあてはまらないものをもっている人も少なくなく、脱落して不幸な人生におちいる人もいれば、逆に、そうした脱落者のなかから、天才といわれる人も出ます。ところが、外からの規制をあまりにも強化すると、人並み外れた優れたものをもっている人をつぶしてしまう結果になります。
 私は、社会を最大限、改善していくべきことは当然ですが、人間を外側から規制する方向を一方的に強化すべきではないと考えます。むしろ、人間に主体者としての自覚を強めさせ、その自主性のもとに自己変革、向上の道を推進して、その結果として、社会の変革、向上がもたらされるという行き方が重視されるべきであると考えます。
2  ログノフ あなたは、ヒューマニズムこそ人間関係を律する普遍的な規範とならねばならないと呼びかけておられます。歓迎すべき発言だと思います。ただ一言いわせていただくなら、社会と人間、社会的抑制と自己抑制を峻別するのは一〇〇パーセント正しいとはいえません。一部のカント派が主張したように、“合法的なもの”と“倫理的なもの”をこのように区別することはそれなりに有意義ではありますが、それは絶対的なものではありません。
 というのは、自己抑制とか倫理は時間を超越したもの、抽象的なものではなく、多くの場合、歴史的に確立された規範によって規定され、そうした規範が事実上、社会のいろいろな関係を規制しているからです。したがって、ここで問題になっている倫理規範を、人間の現実的な生存条件と無関係なものにする必要がはたしてあるでしょうか。私の考えでは、そうすること自体、不可能なのです。
3  池田 それに関連して、マルクスやレーニンの思想も、社会変革を偏重するものであるかのように、しばしば考えられていますが、その本質は、人間優先であり、人間の向上と人間性の尊重に基盤を置いたのではないかと私は理解していますが、いかがでしょうか。
 ログノフ おっしゃるとおりです。ただ、ここで強調しておきたいことは、人間の変革は人間を取り巻く環境の変革と切り離しては考えられないということです。
 私の考えでは、社会の変革・改造とは、その最良手段について観照的に思弁することではなく、人類のため、すべての人々が実践的な変革・改造活動に積極的に参加することです。ソ連邦で現在すすめられているプロセスを分析すると、こうした現象がうかがわれます。もちろん、人間の全き完成は実現不可能です。もしも達成したものに完全に満足したとすれば、その人間に待っているのは、滅亡の運命だけでしょう。
 私たちソ連人は、社会倫理に従いながら、法規範と倫理規範、社会的抑制と自己抑制、社会的判断と個人的良心が、互いに矛盾しないで調和できるような社会機構をつくるべく努めているのです。
 もちろん、人類の歴史において、公に認められた規範が人間自身の良心に矛盾する場合があった事例を私は承知しています。しかし、だからといって、そうした矛盾は避けられないのだということにはなりません。問題は、不公正につくりだされた社会においては倫理規範の悪用がありうるという点にあるのです。そのような社会では“盗むな”とか“殺すな”といった説教が盛んに行われ、民衆の意識に吹き込まれるわけですが、それは、盗みをしたり、人を殺したりすることで良心が痛まない人間集団の社会的安穏やプレステージ(威信)を保つために必要だからなのです。したがって、個々人の自己抑制の必要をいかに保障するかということも重要ですが、それ以上に個人の良心や自己抑制手段と社会的な規範・規則とがうまく調和するような社会をどのようにしてつくりだすかが重要だと思います。
 現在、私たちは、各人の全面的発達に関心をもつ社会、人間一人一人が尊厳をもち、他人の尊厳を大事にするような社会の建設をめざしています。私たちは今、変革という、複雑で困難な課題に取り組んでいます。わが国にはなお未解決の問題がたくさんあります。これらの問題は公開性の精神で明白にされ、民主化をいっそう促進しつつ全社会の努力によって解決していくべき問題です。この点、各人が自分の欠点を自覚し、それを取り除く勇気をもつことがきわめて重要だと思います。それによって初めて実り多い前進の道が開けるのです。

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