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日蓮大聖人・池田大作

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尊厳の意味  

「第三の虹の橋」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

前後
1  池田 ここで人間の尊厳という問題について考えてみたいと思います。近代にいたって、それ以前は差別され圧迫されていた人々が諸権利を勝ち取るにしたがい、人間の尊厳という言葉が、きわめて重い意味をもつようになってきました。尊厳とは英語でdignity、仏語でdignite´、独語でDignitatと言い、ラテン語のdignus(価値ある)がその語源となっています。威厳とか品位という意味ももっており、古い時代には、聖職者とか貴族、王といった人々の独占していた概念でした。
 西欧において、一般市民階層の権利が増大するにつれて、そうした貴族としての威厳といった特殊な内容から、社会的立場や血統などの相違を超えた“人間”としての尊厳が主張されるようになっていったのです。
 その萌芽はイタリア・ルネッサンス期の思想家ピコ・デ・ラ・ミランドラにも見られます。しかし、当時は、まだ、裕福なブルジョア(資本家)階級までしかあてはまっていませんでした。いわゆるプロレタリアート(労働者階級)まで含むようになるには、十九世紀の社会主義思想の台頭を待たねばならず、さらに、欧米人だけの尊厳でなく地球上の全人類の尊厳にまで発展するには、二十世紀後半を待たなければなりませんでした。人種のいかんを問わず、人間はすべて、みずから社会を形成し、国家機構をつくり、自治する権利をもっているとする、この共通の人間としての尊厳観が、二十世紀後半のアジア・アフリカ地域の国家誕生をもたらしたといえましょう。
 もとより、現実の国際社会は、この理念とは裏腹に、誕生して日も浅く、自立の力も弱いこれらの国家を巧みに支配しようとする策謀が渦巻いているわけですが、少なくとも、こうした理念が世界の大勢を動かすようになってきたことは、大きな前進と考えるべきでしょう。
 個人的次元においても、一方で戦火は世界の各地にくすぶり、あるいは不合理な圧政が行われて、人間の尊厳が脅かされている事実は、枚挙にいとまがありませんが、また一方では、一人のベトナム少女の難治の病気を治療するために、義捐金が世界中から集まり、手段の成功に世界中の人々が喜び合うという光景は、人間の尊厳という理念が、いかに大きな力をもつようになったかを如実に物語っているといえます。
 この“尊厳”という概念を哲学的に定義した言葉として、最もよく知られているのは、カントの「他に等価値をもたないこと」というものです。つまり、他の何ものとも取り替えられないということで、“人間の尊厳”とは人間一人一人が他の何ものとも代えられない価値をもっていることを意味します。したがって、みずからに関しては、それが他の人を傷つけることがないかぎり、自分という存在、みずからの人生をなによりも大切にし、みずからの意志をつらぬいていくことであり、他の人に対した場合には、その生き方、意志を最大限に尊重していくことといえると思います。
2  この問題に関連して、西欧において“人間の尊厳”が叫ばれるようになった背景には、中世において“尊厳”であったのは、なによりも“神”であり、“聖職者”であり、“王侯・貴族”であったという事実があることを考えなければならないと思います。それに対して“神”ではなく“人間”が、“聖職者”や、“王侯・貴族”といった肩書や血統ではなく、平等の基盤である“人間”としての存在が尊厳なのだという叫びが、近代の幕を開いたわけです。
 その場合、“人間”の尊厳を主張するために“神”が排斥され、平等の人間としての尊厳を強調するために、社会的地位や生まれによる差別が否定されたことは、いうまでもありません。すなわち“人間の尊厳”を主張する論理には、“人間である”ということをなにより大事にし、それ以外の要素を否定し排撃する心的作用が働いているといえます。
 現代においても、社会的差別などが“人間の尊厳”の前に完全に打ち破られたわけではありませんが、本当の意味での“人間の尊厳”が確立されるためには、より大きな打破されるべき敵があることに気づく必要があります。それは、人間自身の内にある欲望や衝動、怒り、憎しみ、嫉み、恨み等々です。また、多少、抽象的な表現のようにみえるかもしれませんが“運命”などというのも、克服されるべき対象でしょう。
 みずからを尊厳とするといっても、欲望、衝動、運命に支配されている自己を尊厳として絶対化していくことは、自己の尊厳を守ろうとしているようであって、他の人の尊厳を踏みにじり、結局は、尊かるべき人間としての自己をも卑しいものにしてしまうことになるからです。
 仏教では、各人の尊厳を説くとともに、そうした醜い欲望や衝動に振り回されてはならないこと、さらには、運命をさえも転換していけることを教え、さらに、他のあらゆる存在を尊重していく慈悲の実践がつらぬかれるべきことを説いています。
 端的にいえば、自己は、ただそのままであればよいのではなく、尊厳であると自他ともに認められるような自己へと変革すべきことを説いているのです。その意味で、仏教は生命変革、自己変革をなによりも重視する教えであるということができるわけです。
3  ログノフ 池田先生、実在したもの、そして人間の意識のなかで尊厳と考えられたものの歴史的変化についてのあなたのお考えは正しいと思います。人類の進歩が人間一人一人の尊厳に敬意を払う必要性をもたらしたというご意見にも同調します。さらに、今なお、多くの人々、多くの人間集団、多くの階級、そして多くの国家の尊厳が不当に踏みにじられているというお説も正しいと思います。
 侵略や人種差別、アパルトヘイト(人種隔離政策)、そして社会的不正に対する戦い、国際経済、政治、情報関係を見直そうとするたたかいは、人間の尊厳を守るため、積極的にたたかう必要性を物語っています。私の確信では、このたたかいで勝利を勝ち取ることは、人間そのものの、人間の尊厳こそ最高価値なりと声高に叫ぶだけではなく、人間の能力を最大限発揮させるのを実際に助けることによって可能となるのです。
 また、人間の尊厳を決定づけるのは、その人の出身ではなく、彼の個人的な資質であり、社会的地位ではなく、社会における彼の活動であり、彼が社会から得たものではなく、彼が社会、そして人々に与えたものでありましょう。
 そのように高い水準の社会正義や徳義に達するまでの道程は弁証法的矛盾に満ちたものであり、その道程には終わりがありません。しかし、そうした目標を掲げ、日々その実現に努力して近づこうとする社会こそまさに道義的な社会といえましょう。
 人々が生まれ出てくるのは自分の意志によるのではありません。だからこそ人々は自分が欲するままに生を使いこなす正当な権利をもっています。しかし唯一正しい決定を下すために、ただ一度だけ彼らに許された生を無駄に費やさないためには、多くのことを知り、理解しなければならず、祖先の英知すなわち人類がつくった世界文明の宝庫を大切にすることです。人間が文化を理想的なものにできるかどうかは、その人間が住む社会いかんに大きくかかっています。そうした文化摂取の度合いそのものが人間の行為を調節することになるわけで、このことははっきりしています。さらに社会発展の度合いは、社会が人間の向上と人間関係の改善に寄与する可能性をどれほど人間に与えるかによって決まります。
 今ソビエト国民が築いている社会は、各人があらゆる面からみて調和のとれた発展を遂げることに関心をもち、各人が人間としての尊厳をもち、他の人々の尊厳を尊重するように努めるような社会です。人間変革、自己完成につながる容易でない課題が提起されています。自己完成を規定するものは、社会の経済的・政治的・道義的状態であり、人間が暮らし働いている条件です。このような条件づくりがきわめて大事であると言わねばなりません。
 たくさんの問題が未解決のまま残っておりますが、その根源は、社会の文化が十分に高度の水準に達していないこと、思索の狭隘さ、役に立たなくなった形態への固執といったことにあります。私は、自己の欠陥を大胆に自覚し、だれ憚ることなくそれを認めることが非常に重要だと思います。着実に前進するための保障は、これ以外にはありません。

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