Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

生と死  

「第三の虹の橋」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

前後
1  池田 そこで、もう少し、この問題を掘り下げましょう。社会的不死は得られたとしても、なおかつ、人間には、この自分の生命自体が死後、どうなるかという不安が相変わらず残ります。仏教では、死後も、自分の我は存在し、死という状態を経過してのち、ふたたび生命体として、現実世界のなかに誕生してくるという、いわゆる輪廻転生説を立てています。こうした教えは、近代以降、根拠のない観念論とされてきましたが、最近、近似死体験に注目する欧米の学者が増え、そうした体験者の証言をもとに、仏教の説いていることが、必ずしも否定しきれないのではないかと主張する人々が出てきています。この点についてはどのようにお考えですか。
 ログノフ 人間の生物学的死ののち、その生が継続するという教義についていえば、現代科学の生命観は、その実在論的観点からして、はたして同意することができるでしょうか。
 死後体験についての、R・ムーディやE・キューブラー・ロスなどの著作は、科学的視点からすれば、きわめて脆弱と言わなければなりません。これらの著作の中で引証されている“事実”は、それらがたとえ実際にあった若干の体験記に基づいたものであるとしても、超自然的な考え方に頼らないで説明することができるでしょう。それらの“事実”は高次神経活動や心理過程の生理学上の現代的・科学的概念の枠に十分収まってしまいます。
 これらの場合、取り上げられているのは、死者の感覚や体験ではなく“死につつある者”のそれであり、したがって、それは、脳や人間のすべての器官が機能するための極限状況を証したものと考えるべきであって、決して死境からの便りとは考えられません。
2  池田 たしかに、語られているのは“近似死状態”におちいったさいの体験であって“死後”の体験ではありません。したがって、そこに加えられる思考は、類推に他ならないことはいうまでもありません。
 そのことはひとまずおいて、ここで私が申し上げたいのは、すでに述べたように、死後、生命はどうなるかということではなく、死を自覚した時の、人間の生き方の問題です。死を恐れるのは、あらゆる生ある物にとって共通でしょうが、自分が、いつか死ななければならない存在であることを自覚して、そこから、この限りある人生をどう生きるべきかを考え、みずからを律していけるところに、他の生き物にない人間の特質があります。
 もちろん、自分が、いつかは死すべき存在であることを強く意識したからといって、すべての人が、限りある人生を社会のため、人々のために尽くそうという考え方になるとはかぎりません。なかには、どうせ、いつか死ぬのだから、自分にとって楽しければよい、と刹那的な快楽を貪ろうとする人もいるようです。とくに、現代世界においては、そうした快楽主義、欲望の満足を第一義に考える風潮が一般化しているように思えます。
 だが、もし、生命は現在の人生が終わってのちも存続し、現在の人生を人々のために尽くして、よく生きれば、幸福な状態に入るが、利己的な生き方をして人々を苦しめれば、不幸な状態に入るという仏教をはじめとする宗教の教えを信ずる人は、おのずから、現在の人生を、社会のため、人々のために尽くす道を選ばないではいられないはずです。
 私は、死後の生命が存続するかどうか、そこに因果の法則性があるかどうかを、事実の問題として論議することは、平行線をたどりかねませんが、死後の問題をどのようなものと想定するかによって、現在の生きる姿勢が左右される事実に注目する必要があると思うのです。
3  ログノフ あなたは、人間の生における、死の精神的意義について、重ねて強調されました。
 人間の生と死はおっしゃるとおり、不可分に結びついています。死は生の対立概念であり、この両者は対立するものの断ちがたい合一であり、二つのものの統一です。それは、私の考えでは、人間の生の精神的、社会的不死に自然的に移行するという意味において結びついています。ただし、それは、死んだ者が何か別の、わが現実に対して先験的な生存形態に移行することを意味するのではありません。あくまでも、私たちの意識のなかや、人間の遺伝学的蓄積のなかだけでなく、社会遺伝学的蓄積においても、私たちが用いている言葉のなかでも、私たちのあらゆる思想と行動のなかでも生きつづけるのです。死者は蓄積された労働においても――その結果なしには私たちの労働も考えられないわけですが――、科学や技術の領域においても、文化のさまざまな分野でも存続しているのです。私たち以前に生きた人たちは私ども自身の切っても切れない一部です。
 繰り返しますが、人間は生物学的および社会的存在であり、人類としての総体の中の個体です。そして個体の死は人類の継続、世代の交代の絶対不可欠の条件です。この意味において科学的世界観の立場に立つ私たちにとって、死の事実を絶対化することと、死をグローバルな哲学問題へ転化させることは無縁のものです。
 私たちは個体の生物学的死を客観的必然性としてとらえ、エピクロスやスピノザにならって、正常な人間はつねに死について考えてはならないと思います。しかし、このことは、人間が不死について、つまり、その天才によって世界文化を豊かにした人々のすばらしい不死、また人類によって蓄積された労働の成果を継続した、無名であっても誠実な勤労者の、それに劣らずすばらしい不死について、また同時に永久に記憶に残る欠陥人間、悪と暴力の思想の持ち主の恥ずべき“不死”について考える権利がないということを意味しません。換言すれば、生きた人間は自分の不死、自分が残すであろう記憶について忘れるべきではないでしょう。

1
1