Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

人間性の探求と文学  

「第三の虹の橋」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

前後
1  池田 第二次大戦後、いやもっと厳密にいえば、ロシア革命後のソビエト・ロシアは、私たち日本人にとって、正直にいって、近くて遠い国であったと思います。
 ソ連は、日本にとって最も近い外国です。にもかかわらず、お互いの交流は最も少なく、そのため疑心暗鬼にとらわれているともいえましょう。
 そうしたなかで、ロシア文学は、その多くは革命前の作品ですが、多くの日本人にとって、最も広く親しまれてきました。とくに、トルストイやドストエフスキーの作品は、繰り返し全集が出版され、また、日本で出版されているさまざまな世界文学全集の中に、必ずその主要作品が収められています。
 このように、トルストイやドストエフスキーの作品が好まれる理由は、人間性を深く掘り下げ、見事に表現しているところにあると思います。
 ログノフ 文学は各人の人格形成に大きな影響を与えます。物語や知識への愛情を私に植えつけたのは祖父でした。祖父が語ってくれたことから、私は書物に心を惹かれるようになりました。世界に広く有名な作家のなかで私の好きな作家は、トルストイとドストエフスキーです。この二人の作家はお互いに補完し合っていると思います。
2  池田 古今東西を問わず、優れた文学は人間性を深くとらえているところに特質がありますが、とくにドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』や『白痴』などは、愛情や思いやりといった人間性のもつ美しい面とその反対の憎悪や敵対心という醜い面との相克を、きわめて鋭く描きだしています。その背景には、ロシア人自体、この両面性を他の民族には見られないほど際立ってそなえている事実があるのではないかという気がします。
 このことに関連して、フランスのアンドレ・シーグフリードは、その著『l’ame des Peuples(民族の魂)』(邦題『西欧の精神』福永英二訳、角川文庫)の中で「ロシア人のなかにはいつでも、相対立する能力が融和されないために、幻想的な、過度のものが何かある。……ロシア人のなかには、一人の個人のなかにさえ、謙遜と高慢、理想主義と犬儒主義、高徳と悪徳の共存がみられる」と述べています。
 ロシア人について手厳しいこの文を挙げることは、失礼なことかもしれませんが、とくにドストエフスキーの作品を読む時、ロシアの人々自身、こうした特色に気づいているし、また、そのためにこそ、人間性という問題について深い思索をこらし、今日においてもなお世界の人々に考察をうながすような偉大な作品が生まれたのであろうと考えさせられます。
 これに対して、日本文学の場合、人間のそうした内面的葛藤をえぐりだした作品というのは、あまり見られません。日本文学が描いたのは、おもに自然の美しさや、その移り変わりのはかなさ、それと対応する人間の情趣、人生の無常です。また、人間の生き方を左右し動かしている力としては、衝動や欲望というよりも“業”であり“因縁”であるとする見方が一般的のようです。
 ロシア文学に登場する人物が、みずからの善意や悪意によって一切を動かしていく、巨人のような激しさと強さをもっているのに対し、日本文学の人物は、全般的にみると、つねに周囲の状況や、目に見えない因果の絆によって振り回される弱さをあらわしているように思えます。
 そして、日本文学の場合は、人間は結局、業や因縁に動かされていく以外にないのだという諦めのなかに、あるいは自然の中に溶け込んで一体化していくなかに、心の清澄さを得ていくのが理想とされます。これに対し、ロシア文学の場合は、少なくとも革命前の作品では、神を求める修道僧的な克己のなかに救いが求められます。革命後のソビエトにあっては、祖国の防衛や民衆への奉仕という社会主義的理想に殉ずることが、それにとってかわったといえましょう。
 日本文学が人間の内面的葛藤の激しさを描くことが少ないのは、日本社会が個々人を強い倫理規範で縛ってきたため、自身の内に対立するものの葛藤に苦しむよりも、つねに外の世界と自身との葛藤に苦しめられてきたからであると解釈できます。その意味では、近代社会は、そうした倫理規範の束縛が急速に弱まっており、これは世界のあらゆる国に共通の傾向であることから、ロシア文学が追究したものは、今後の人類にとって、ますます深刻な関心を集めていくのではないかとも思えます。
3  ログノフ 人間は多くの場合、文学を通してヒューマニズムの精神に導かれるというあなたの見解、また、ヒューマニズムは文学作品における優れた形象の最も重要な構成要素であり、本質であるとするあなたの見解にまったく同感です。あなたが正しく指摘されているように、ロシア文学の主要な特徴は、愛、同苦、憎しみといったさまざまな感情を解明していることです。ヒューマニズムの深遠な実体をとりわけ鮮やかに描きだしているのは、ドストエフスキーとトルストイの作品であるというあなたの見解にも同意します。
 ご指摘のように『カラマーゾフの兄弟』や『白痴』では、人間の感情や心的体験、そして激発的な感情の吐露に見られるデリケートさ、複雑さといったものが深く掘り下げて究明されています。西側作家の間では、ロシア的性格に通暁した人間と自認するためには、『カラマーゾフの兄弟』を読むだけで十分だという意見さえ聞かれますが、これは正しくないと思います。
 たとえ、どのように優れた作品であろうと、一つの作品だけで人間の性格のすべてを完全に解明することはできません。しばしば入念に蔽い隠され、心の片隅に秘められたものをあますことなく解明することは不可能なのです。このことはなにもロシア人に限らず、すべての民族にも言えることです。なぜならば、人間は生きた存在であり、絶えず変化し、成長し、向上するものであり、最終的に固まってしまったり、完成されてしまう存在ではないからです。
 人間の感情が火花を散らすのは、電気のプラス・マイナスの二極のように、感情のなかで相対立する両極が互いにぶつかり合う時です。私がこのようなことを言うのは、池田先生、あなたがアンドレ・シーグフリードを引用して、ロシア人はだれもが、謙遜と高慢、理想主義と犬儒主義、高徳と悪徳をあわせもっていると言われたからに他なりません。ですが、こうした性向は、日本人も含めてあらゆる民族にも、もともとそなわったものです。そのことと、人間は己心に内在する否定的な素質を超克できるか、そして結果的に徳義や社会意識をもった人間になりうるかどうかという問題は別の問題です。

1
1