Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

勉学時代  

「第三の虹の橋」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

前後
1  池田 ところで、総長は物理学がご専門ですが、物理学を選ばれるにいたった動機、学生生活の経過などについて話していただけませんか。
 ログノフ 私の学生時代はわが国において文字どおりすべての国民が教室机に座った時期でした。レーニンのスローガン「学べ、学べ、そしてさらに学べ」が一人一人の心に浸透し、わが国はいく世紀にもわたる圧政と自失の結果生じた無知と立ち遅れを一掃する道に入りました。
 人々は書物に手をのばし、子どもから老人まですべての人間が勉強を始めました。ですから、孫が祖母や祖父と一つの教室机に座るといった光景もめずらしくはなかったのです。私も一九三三年に初等科の生徒になりました。
 池田 私の場合、というより私が勉学時代を過ごした一九三五年から四五年頃までの日本は、その反対に学ぶべき学童も落ち着いて学べない時代でした。小学生時代はまだよかったものの、中学時代は防空演習あり、勤労動員ありで、教室にいることさえ少なかったのです。それだけに一九四五年に戦争が終わった時、遅れを取り戻そうと、懸命に読書に打ち込みました。もっとも生活自体たいへんでしたが。
 ログノフ 私はよく、「学校時代あなたの勉強ぶりはどんなものでしたか」といった質問を受けます。さまざまな勉強ぶりというのが私の答えです。勉強することは私の変わらぬ願いでしたが、なんといっても子どもは子どもです。ですから、当然いたずらなしにはすまされません。
 ある授業は別の授業より好きでした。どうしてそうなのか。どうやら、それは課目そのものが問題なのではなく、教え方にあったようです。たとえば、生徒によっては数学が性に合わない人もいます。ところが、あたかもクラス全体を催眠術にかけたようにし、磁石のように全員の注意を自分に向けさせる教師がいます。彼は生き生きした思考力で一人一人の心を魅了しつくすのです。じつは、この、人の心を魅了する能力が重要なのです。そうすれば、人は時が経つのに気づきません。その人にとって重要なのは成果に気づくことなのです。
 私の場合、少年時代から、勉強は必要であるだけでなく、人間にとって最も自然な状態でもあるというふうに受けとめていました。徐々に視界が広がっていき、そしてついに、人知が到達した極限をのぞきこんでみたいと願うようになりました。
 父はたびたび住所を変えましたが、私たちはだいたい、農村地方か、またはペンザ州やクイヴィシェフ州の小都市に住んでいました。住所がよく変わるので私は同じ学校で四年以上学んだことはありません。しかし私は一年生の時に学んだ学校で、卒業を迎えるめぐり合わせになりました。
 学業は総じて楽に習得することができました。そして驚くべきことに自由時間が多く残り、その大半を私たちは戸外で過ごしました。コサックの追いはぎごっこやサッカーゲームをして遊んだものです。今の子ども――生徒や学生を見ていますと、彼らははるかに負担が多く、自由時間というものがあまりありません。これはよいことでしょうか、それとも悪いことでしょうか。どちらかといえば、多分悪いことだと思います。
 人間は知識の習得や蓄積のプロセスを通るだけでなく、知識を思考するための時間も必要なのです。「木を見て森を見ない」とよく言われるように、森を見るためには、そこから出て広々とした野原に立つことが必要です。
2  池田 貴重なご指摘です。私も子どもにとっては自由に遊ぶ時間が教育上、というより人格形成上、不可欠であると考えています。私の場合、前述しましたように、教室で学ぶ時間があまりにも少なかったのですが、勤労動員で、社会のさまざまな人々とふれ合えたことが、貴重な体験になっています。とくに戦争の混乱のなかで、人間はなぜ互いにこのように殺し合わねばならないのか、国家とは何なのか、といったことを考えさせられました。
 ログノフ 私が学業を終えた時期はわが国にとり、ソビエト国民全体にとり、またファシズムとのたたかいに立ち上がったすべての人々にとって、最も困難な時期でした。
 戦争の炎が燃えさかりました。それはとても苛酷で、ひどく破壊的できわめて非人間的な戦争でした。人々は飢え、凍え、並々ならぬ苦しみに耐えました。しかし、私たち子どもが学び、子ども一人一人の内にある未来――平和で、それゆえにすばらしい生活の芽を大切に守ろうとみんなが努めました。
 池田 ソビエトにとって戦争の厳しさは、日本以上であったといってよいでしょう。あの戦火の荒れ狂ったなかで、未来のために、子どもたちには学ばせたということは偉大です。
 指導者はいかなる時にも、次の時代のことを考え、次代の建設のための手を打っていかなければなりません。次の時代を担うのは青少年であり、次代の社会を建設していけるためには、知識、知恵、技術の習得が不可欠です。
 ログノフ 私はペンザ州の小都市クズネツクで中等学校を終えました。これから先どこへ行って学業をつづけるべきかという難問が起こりました。運命が決せられようとしていたのです。
 当時、わが国では多くの人々が技術、とくに航空技術に心を惹かれていました。当時はまだ小都市だったクズネツクでいちばん憧れられ、尊敬された職種は、機械技師でした。機械技師が自分で組み立てた自動車――それはひっきりなしにくしゃみをし、煙のうずを吐き出すのですが――で街中を通り過ぎる時、彼の権威は疑う余地のないものになるのでした。私たち少年はその姿に惚れぼれし、圧倒されてしまいました。
 私はその時、自分の人生は永久に航空技術やエンジン、つまり数学に直接関係したものにすると決めたのです。当時、私はすでに航空技術は数学なしには無に等しいことを知っていました。「学校数学」という雑誌で「航空技術は九〇パーセントまで数学である」という文章を読んでいたからです。
 私が数学に熱中したのは八年生(当時の小・中等学校制度の最終学年)を終えてからでした。したがって、私の進むべき道を決定づけた最初の人間は、数学の教師であったA・M・コルパコーフでした。彼はすばらしく立派な人間で、他のだれにもまして若者を惹きつける才能をもっていました。彼はずるそうな目で私たちを見ながら、こう言うのです。「僕は二日間も問題と取っ組んで、苦しみ通したんだが、結局は答えを引き出すことができなかった。だんだん年をとっていき、どうやら思考力が落ちてきたようだ」
 私たち生徒は、その問題とはいったいどんなものかを急いで知りたいと思いました。問題はたしかにむずかしく、その解決に何日も苦労しなければなりませんでした。しかし、解答が見つかった時は、それこそお祭りがやってきたような気分でした。
3  池田 うまい教え方ですね。生徒に、いかに自分で考えさせるか、もっとはっきり言えば、考えようという意欲をいかにして起こさせるか――これが教育の基本といってよいと思います。コルパコーフ先生という人は、そうした意味での教育の達人だったのでしょう。
 ログノフ そんなわけでクイヴィシェフ航空技術大学のエンジン製作学部に入学することにしました。一年と二年の時には、私は夢中になって勉強しました。とくに好きな課目は理論学科でした。実習課目が始まった時、私は、航空技術が私に向いていないことがわかりました。学部長のプチャータ教授から航空機製作学部へ転部するよう勧められました。しかし、私がすでに、モスクワ航空大学への転学について考えていた、ちょうどその時、父から手紙がきました。父はモスクワ郊外の軍隊に勤務しており、私と母に彼の勤務地へ越してくるように言ってきたのです。そんなわけで私はモスクワ航空大学の無線技術学部に入りました。
 モスクワで私はあらためて三年生をやりました。つまり一つの学問から別の学問へ移ったからです。フェリド・Ya・N教授はカリキュラムで予定されていたものより多くの研究課題を提出して私を電気力学へ誘いました。しかし四年生の時、工作機械、器具、生産組織といった課目が加えられ、実習が始まった時、私はふたたびこれは自分には向いていないということを感じました。基礎理論的な学科に心が惹かれたのです。
 ところが、またもや私は幸運に恵まれました。当時モスクワ大学の機械数学部にエクステルナート(校外者の卒業検定試験受験を認める制度)があったのです。そこで私はモスクワ航空大学の四年生在学中、並行してモスクワ大学機械数学部で試験を受けることになりました。物理学部の四年編入試験に合格してモスクワ大学に転学することにしました。
 モスクワ航空大学のイシムバエフ副学部長は私を思いとどまらせようとしました。「君はすでにあれほど多くの努力を注ぎ込んだではないか、それに君の希望にはつねに応じてきたはずだ」と言うのです。
 しかし、それでもなんとか私は彼を説得することに成功しました。こうして、私は書類を携えると、翼が生えたようにしてモスクワ大学に飛んでいきました。大学の建物に入ると、「一大学から他大学へ、一学部から他学部への転学は厳禁する」というばかでかいポスターが目に入りました。私は胸がどきんとしました。なんともはや、苦労したあげくがこのざまだと思いました。
 生きた心地もせずG・D・ヴォフチェンコ副総長の部屋に入りました。「この大学で学びたいのです」と頼むためです。私たちは小一時間、話し合いました。私はヴォフチェンコ副総長に四学年に編入させてほしいと懇願しました。というのは、教材をしっかり覚え込み、また大学の空気を感じ取るためにはそのほうがいいと思ったからです。
 どうやら私はだんだん古いロシアの“万年学生”のようになっていくように思われました。両親の側からの不満を予期して当然でした。しかし、両親との関係では私は幸運でした。両親はいつも私を信じてくれたのです。
 池田 人生においてなによりもありがたいことは、信じてくれる人の存在です。ご両親は、総長のことを心から信頼されていたのでしょう。

1
1