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日蓮大聖人・池田大作

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人間の責任性と永遠の生命  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  人間の責任性と永遠の生命
 池田 過去の宗教が民衆に対して“意識の方向性と意味を与える”ものとして教えてきたことは、死後の世界についての諸問題でした。
 仏教でも、現在の人生における行為の道徳的善悪や宗教的善悪によって、地獄に堕ちたり、浄土へ往生する等の、結果の相違を生ずると教えました。同様の教えは、キリスト教にも、天国や地獄の思想としてあります。こうして、人間の責任性という問題が入ってきたわけです。
 このような、死後の世界に関する考え方について、あなたは、どう思われますか。もし、現代において意味をもちうるように再解釈するとすれば、あなたなら、どう解釈されますか。
2  ユイグ ほとんどすべての宗教は、現在の人生の報いを含む未来の生活を教えます。この見方は人間に、責任の観念をうえつける目的をもっています。子供の教育についても同じことで、罰の警告あるいは褒美の約束というものが釣り合っていなければなりません。
 こうしてキリスト教において、カトリシズムは、その教義の中で、最後の審判(善と悪を計る秤で象徴された絵がよくありますが)によって天国か地獄かが決められるとする来世の教えを示しました。仏教が、生まれかわりながら生命が連続するという教義によって、人はそこで、進歩か退歩かの報いをうけるとするのも、結局は、これと似た効果をもっています。
 物質主義におおわれている現代文明においては、人間の終局とか自分の人生に対する責任とかいう概念は消滅する以外なくなりました。現実にあるもの、現在がまず優先し、技術や社会の進歩への漠然とした信仰がこれに加わります。この進歩は未来におけるよりよい現在を生じさせることが目的です。そして人間は一人で自分の欲望と向き合って立っているという状態です。
 この進歩がめざしているのは人びとの欲求だけであり、快楽の満足をもたらすことだけです。人間は当座のことにのみ追われており、存在の意味や理由をまったく意識しなくなり、その生命の原動力を失っています。そして道徳的空白と苦悩を生み出し、それが現代人すべてをかくも明敏でなくし途方に暮れさせているのです。
3  もし宗教が衰退をつづけていくならば、人類はいったいどのようにしてその巨大な空隙を埋めることができるでしょうか。マルローは、神聖なものに取って代わるものとして芸術をあげましたが、そのとき彼はまさにこの問題を考えていたのです。物質主義の文明にあっては、質の概念を導入できるのは、最も広い意味でいうところの“文化”しか残っていません。文学や美術が価値の度合いの概念を含んでおり、さらに高いところへ到達したいという渇望を引き出すものだということはすでに述べました。
 そして、この完成に向かおうとする衝動の目的とするものが、まさに「無限」と呼ばれるものであることも私たちがよく知っているところです。現代の物質主義的社会は、私たちを脅かす不毛に対しては“文化”によってのみ対抗しうることを認め、ちょうどフランス革命が“理性”を聖化したように“文化”をほとんど聖化しています。そして現代文明は、政府に“文化”のための省さえ設けているわけですが、文化を娯楽やレジャーと混同する現代社会の傾向によって、文化を空白を埋める気晴らしの役割に落としてしまっているのです。
 私たちは、教育が現代世界の空隙や偏見への平衡錘として適用された場合、はたしてその役割を果たしうるかどうかについて検討しました。しかし教育はその方向をたどることはせず、現在のものの考え方をさらに強めるものになっているように思われます。「生活の質」について語ることが、快適な生活を求めることになってしまっている今日、この真の意味や内容から外れてしまった質に対して、どうして信頼をめざめさせられるでしょう。

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