Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

人間の超克  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
1  人間の超克
 ユイグ 仏教の立場はもっとはっきりしています。非人格的な法を明かし、それに触れさせることによって、人間を事物の束の間の様相に結びつけるだけでなく自分の力の限界に閉じこめてしまうものすべてをしだいに乗り越え、取り除くことによって、きわめて直接的に無限へと向かうよう訴えます。そこで教えていることは、智慧を超え、感情をさえも超えていくことです。
 それにもかかわらず、そこには、神秘家から起こった最も高い啓示に固有の、そしてしかも多くの宗教に共通した一つの性格があります。これが本来の意味での神秘的飛躍です。たとえばもうすでに述べましたサン・ジャン・ド・ラ・クロアは、神の光に到達するには、われわれの光、現実の光を逃れなければならないといっていますが、それによって彼は、見かけの世界、物質的実在の世界を乗り越えなければならないといっているのです。そして、したがって“夜”の中に入らなければならないといっているのは、理解する力を磨かねばならないということであり、われわれの内に知性の闇と心の闇を創り出さなければいけないということを明確にしたかったのではないでしょうか。
2  したがって、彼は、自己の神秘的飛躍において――もちろんそれはすべての信者が達することのできるものではなく、最もすぐれた選ばれた人にのみ可能な飛躍なのですが――仏教に見いだされる捨棄の概念へと向かっているのです。彼自身、最後にいっていることは、この闇を通り過ぎなければならないということです。それは、われわれの方法とわれわれ自身であるところのものを否定することと理解すべきなのです。そして私たちがもっているあまりにも安易な光を捨てたあとにくるこの“闇”を通過して初めて、もう一つ別の新しい光に到達するのです。この光は人間の目のために創られたのではなく、そこで人は神の啓示に出合うのです。
3  結局、世界のあちこちで信仰されている宗教がなんであれ、その宗教には、神秘家でなければ到達できない頂点があります。そこでは各種の宗教間の違いはほとんど消えてしまい、えもいわれぬ感覚がそこにかわるのです。キリスト教の神秘家は、自分がイスラム教の神秘家とあまり違わないことを認めることができます。私はヨーロッパで最も神秘的な修道会であるカルメル会などの修道士から、それに関する証言を聞いたことがあります。カルメル会で重要な位置を占めていたある修道士は、イスラム世界の神秘家の考え方やあるいは仏教の最も高い思想を、ほんとうに造作なく理解できるといっていました。教義や儀式の境界を超えて、神へ心を向けた人びとのあいだには、慰め力づける合致点があります。私が仏教に興味をいだいてから約四十年になりますが、仏教は、その最も純粋なかたちをとるときに、とくに、あなたがなさるように、法華経に照合するときに、人間の超克へ導く最もきびしい、と同時に最も単純な道を開いてくれるように私には思われます。

1
1