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日蓮大聖人・池田大作

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日本と西洋  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  日本と西洋
 ユイグ 十九世紀末に生じた、日本美術と西洋美術とのこの接近は、事実、非常に重要な現象です。そればかりでなく、これは、全般的な歴史的発展の中に位置づける必要があるでしょう。
 極東と西洋のあいだの通商上の交渉は、すでに十八世紀に確立されていました。しかし、これら二つの世界は互いに未知のままで、相互に入り込もうとはしませんでした。たとえば、フランスでは“シナ趣味”といったものが大変な人気でした。フランスはロココ様式の発展とともに、中国の空想画やエキゾチックな飾りを借りています。それは、目新しさのゆえに人びとを驚かせ興奮させる効果がありました。しかし、それは、深い理解や一致などではなく、皮相的な見せ物の域を出ませんでした。
 この遠い国ぐにについての真実の認識が打ち立てられることが必要でしたが、その端緒を開いたのが、インド思想の研究、とくに仏教についての探究でした。十九世紀のことで、私の属しているコレージュ・ド・フランスがその草分けの役割を演じたのです。
2  文化の新しい分野を開拓するという固有の使命を果たすために、研究と教育の講座を設けるというその規則に忠実に従い、コレージュ・ド・フランスは、この学問のために一講座を設け、一八三二年からそれをビュルヌフ(フランスの東洋学者)にゆだねたのです。
 そのころ、ドイツの思想も、同じ興味を示していました。北ヨーロッパは太古の昔からユーラシア平原に開かれており、そちらからの侵入を受けてきましたので、東方思想に対して近づきやすいのです。ドイツ・ロマン主義は、十八世紀フランスの過度の合理化と理知化つまり“啓蒙主義アウフクラールング”から逃れるためには、この方向へ向かう以外なかったわけです。
 イギリスは、十八世紀以来、インドからフランスを押しのけ、そこに一世紀以上にわたって定着しましたので、そのかわりに、知的・芸術的対決を余儀なくされ、博物館や研究所を設立せざるをえなかったのです。
3  しかし、ほかの国ぐに、とくにフランスでは、ロマン主義者たちは、とりわけドイツ人たちを手本にして、“理性”の無味乾燥に対する反動をひきおこし、物質科学の飛躍的発展が、文明をますます客観的で抽象的・機械的にしていくのを見て不安におちいりました。彼らは、内面生活、感受性、想像の生き生きした源泉を守るために、東洋にその広大な泉が見いだせると感じたのです。
 彼らは、一つの方法的な進歩によって、そのことに取り組みましたが、絵画にそれをたどることができます。ドラクロアの後継者としてデホデンクがおり、さらにフロマンタン(フランスの画家で著作家)がいますが、彼らはアラビアの世界に目を開きました。ギュスターヴ・モローの時代に、インドへの道が開かれ、彼は、建築物とその装飾に使われているさまざまな形体がもたらす未知の幻想が起こす暗示作用を発見します。
 第三の段階として、中国、さらに日本の発見に到達します。印象主義とその後に続く流派が興隆した時代です。
 この歴史は専門家によって、たくさんの研究(註)がなされてきています。

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