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日蓮大聖人・池田大作

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芸術――第三の実在  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  芸術――第三の実在
 池田 私は、すぐれた絵画を見るたびに、それが風景画にせよ、人物や静物を描いたものにせよ、私たち普通の人間のもっていない鋭い観察力を画家はもっているということを痛感させられます。事実、そうした作品は、たんに目にみえるものを超えたなにかをもっています。
 私が美術家について驚嘆するのは、絵をかいたり彫刻したりする技術ではなく、対象をその外観を超えてとらえ認識する力であり、その目の鋭さです。すぐれた美術の創造者は、たぶん、先天的な能力をもっているのでしょうが、先天的にもっていたとしても、やはり、修練によって磨かなければ、十分に発揮されることはできないと思います。
 美術的天才ということについて、あなたはどのようにお考えになりますか。また、それをどのように定義されますか。
2  ユイグ あなたはいみじくも“対象をその外観を超えてとらえ認識する力”といわれましたが、それは、芸術が私たちに基本的な事実を気づかせてくれるということです。つまり、真実は一つではなく、二つあるということです。
 一方では、空間の中に組織され物質によって構成された、具象の実在があります。それは私たちの身体の感覚器官で観察できます。しかし、もう一つ別の実在があります。それは内面的な実在で、いかなる場をも占めるものでありませんから、時間はともかく空間に依存するところはるかに小です。
 よく私たちは、それが“私たちの頭の中”にあるといいます。しかし、そこでも、明確にどこにあるかを指定せよとなると困ってしまうでしょう。それは、いたるところであり、しかもどこの部分でもないのです。ということは、それは私たちの身体の枠の内側にあって、私たちの生命に属しており、ベルクソンが内面的持続として描いたとおり、流れていく時間でしかないのです。ここでは物理学によって述べられる時空間の概念は役にたちません。そうした二つの経験基準は生命の活動の中では還元不能のままです。
3  人間生命のすべての問題は、私たちの身体がそこに身を落ち着けている空間の広がりと、私たちの意識的・無意識的な生命をもたらしたり運び去ったりしている、もう一つの時間の広がりとの、この交差と干渉なのです。なぜなら、私たちは時間に従って生きており、一秒ごとに老いていきます。同じでいることはできません。時間は私たちの精神的存在の本体でさえあります。
 これら二つの世界のあいだにあって、私たちの実在は中間的存在のままです。一方で生命から意識への上昇によって、持続性の中に展開しながら、他方、その肉体的支えによって物理的世界の中に刻まれているのです。
 “現在”と呼ばれるものは、私たちの内においてもその周辺においても、かくもとらえがたいものですが、私はそれは時間と空間との、この交差点だといえると思っています。私たちが思考によって現在の外にいるとき、つまり過去や未来の自分に想いをはせているとき、私たちはその空間の中に位置するのをやめているわけです。現在という交差点にいるときにのみ、この空間の中にいるのです。

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