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日蓮大聖人・池田大作

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行動の原理――直観と理性  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

前後
1  行動の原理――直観と理性
 ユイグ こうしてみると、人間は大洋を航行する船のようなものです。絶えず襲ってくるどうしようもない力にもてあそばれ、風、潮流、嵐がその針路を左右し、それに対してなにもできないのです。しかし、彼は根本的な一つの切り札をもっています。これらの力に対して、それから自分を守り、さらにはこれらの力を利用するように、自らの行動をリードすることができるということです。したがって、彼が舵に与える指令ですべてが決まります。そして、その指令自体は、彼が選んだであろう道筋、したがって、その旅に彼が与えた最終目的によって決定されるでしょう。
 ですから、人間の決定論の部分と、自分が選んだ方向へ舳先を向けていく、自らの意志による自由性の部分との間に宙ぶらりんになっているわけです。すべては、運転、指揮の問題に帰着します。しかし、最終的にこの操縦を彼ができるし、またしなければならないとしても、ではなにをよりどころとしてこれを行い、どんな独自の力を働かせるのでしょうか?
2  自然は動物に本能を与えました。これは、人間においても、人間らしさのあらわれている線より下にあっては、同様です。その場合、本能が残存しているのは、生命に本質的な必要性に応じて、生命の存続を保つためのみです。そこでは決定論がすべてを占めていますが、人間らしさとともに、自由性という余白が、それに加わります。それは、彼の知性が、知性あるがゆえに生じてくる疑問に対して、彼自身が有効な答えを創造できるようにするとともに、また、それを義務ともしているのです。
 しかし、その行動の原理は、どのようなものでしょうか? 人間は、二つの行き方で現実にかかわっています。それは十九世紀初め以来なされてきた、われわれの内なる主観世界と、外なる客観世界という区分に対応するものです。
 一方は主観から起こるもので、これは、私たちにとって本能と直観のかたちで示され、一種の命令的な性格をもって私たちの深みから上ってくる内的啓示としてあらわれるものをよりどころとしています。こうして、事実、いわば内的生命、心の世界の根を通じての宇宙・世界とのコミュニケーションが行われるのです。
3  私たちは宇宙の全体を構成している一部分であり、その生命的エネルギーの一断片をあらわしながら、宇宙を構成し、宇宙の前進を刻んでいく全体的なエネルギーに参画しているわけです。私たちはそれを自らの内に味わい、内的にそれを経験します。それが、直観的なかたちであらわれるのです。これがおそらく、私たちの知性の最も純粋な部分であり、理性は、要するにそれを組織化する手段でしかありません。
 このようなものが私たちに提供されている、ときには強制的に課せられる、第一の行動の原理です。しかし、こうした指令に対して、もう一つ別の行動原理が声を発します。それは、第一のものをおおうに十分の力をもっています。これが知性で、それは、論理的な理性によって武装され、受けた教訓や戒めによって育てられたもので、私たちの行動を自分の認めた“原理”に屈服させようとします。
 動物はその本能的な決定論の働きに身をゆだねており、知性がもたらすこの二重性とジレンマを知りません。私たちの自由性は、選択と決断の必要性とともに、この二重性とジレンマから発してくるのです。

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