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日蓮大聖人・池田大作

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自由と道徳  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  自由と道徳
 池田 これまでのどこの社会でも、人間の自由が一方では望ましいものでありながら、同時に他方では恐るべきものとなりうることも知られていたと思います。それゆえに、社会の仕組みによってこの自由に制限が加えられる一方、厳格な社会的倫理によって精神面からも束縛が加えられてきたわけです。
 だが、その多くは権力者の利益と結びついて不当に行われたため、近代化とは、まずこうした束縛を打破することでもありました。私も、自由は人間の尊厳性のための重要な条件であると考えています。ただし、自由はそれだけで自動的に尊厳性を実現するのではありません。
 尊厳性の実現は、あくまでも人間の意志と理想、また自己規制の力によるのであって、この人間自身の努力と自律を保障するところに、自由のもつ価値があると思うのです。
 このように、自由の問題は人間の尊厳性という問題と関連して、その正しい関係においてとらえられなければなりませんが、このことは、あらゆる面で自由が拡大されつつある現代文明において、最も強く要請される問題であろうと考えます。この点について、あなたのご意見をうかがいたいと思います。
2  ユイグ この答えは、すでに欲望と憧憬との違いを区別したことから出てきます。
 欲望は、私たちに与えられた生理機能や性格といった無意識の深みからくるものです。それは衝動であり、したがって、人間がそれを導き抑制するためには、監督されなければなりません。それに対し、憧憬は、自己を改良し、人間性の不完全さを乗り越えようとする努力の反映です。
 この場合、社会の穏和な進歩のために社会によって設けられた道徳的尺度は、その平凡さのゆえに息苦しいものとなる可能性があり、憧憬は、ときとして、社会の法を超えて進まなければならないでしょう。
 そこから、道徳のあらゆる問題が提示されてきます。社会は、私たちの最も本能的な欲望から生じた衝動が、掠奪者となって、社会的均衡を害するようなエゴイズムを呼び起こしうることを理解しています。ですから、社会は欲望を監督しそれに足枷をはめざるをえず、そこで、個人の貪欲が全体の均衡をかきみださないために、さまざまな規律を設け、それを各人に課そうとするわけです。
3  しかし、“憧憬”によるならば、まったく違った行き方になります。憧憬は、私たちの自我があらわす独特の場合を通じて、生命の深いところからきた声を伝えます。それは、進化の法則に従い、不思議なやり方で、“創造”と、その最も明晰な部分である人間を推進して、よりよいものの獲得に向かわせるのです。それは、私たちを、現にあるところを超えたくなるように駆りたてますので、既成の規律というこの実際的な手段を超えるようにしむけることができます。
 憧憬は私たちの主体的自由の源泉であり、既存の秩序の枠の中に収まるだけにとどまらないものですから、この自由な主体性は法律によって限定されることは可能ですが、法律に対して、自由を完璧にするよう一つの圧力をかけることでしょう。
 そこに、道徳のすべての問題があります。現代はこうした規律を拒もうとしています。現代は、それらが古い社会によって立てられたもので、おそらく、あまりにも狭い公式化された理念によって硬化症に侵されていると思っています。現代は、とりわけ、これらの規律が自由の行使にとって重荷になっているという限界を認め、それに対して反抗し、拒否し除去しようとしています。

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