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日蓮大聖人・池田大作

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自由の問題  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  自由の問題
 ユイグ ここで私たちは、意志の問題に関連して、自由という問題に近づいてきたわけです。それには、人間の中に“知覚する存在”(客観性・外向性)と“感ずる存在”(主観性・内向性)を区別するのでは十分でありません。彼が抽象的に知っていることを、その全感覚で知覚しているものとしてうけとり、その結果、自分の行動に方向を与え、それにとりかかる決断をするようにする存在に大きい場を与える必要があります。このときに働く新しい能力が“意志”です。
 しかし、意志の問題は自由の問題に結びついています。私たちが決断するものは、決定づけられているのでしょうか? 別のことばでいえば、私たちの内的・外的な条件の避けえない結果なのでしょうか? それとも、部分的にすぎないにしても自由なのでしょうか? ということは、それは、とりもなおさず、私たちの自律的選択によっているのでしょうか?
 そこに哲学者たちは、何世紀にもわたって追究されてきた議論の素材を見いだしてきました。たぶん、私たちが話し合ってきたことを光にして、この問題に新しい迫り方をすることが可能でしょう。
 決定論と自由とは、事実、あまりにも単純な哲学が考えがちなようには、互いに根本的に相容れないものではありません。私たちは自分の内に、定められた部分、つまり運命をもっています。しかし、自由の部分、すなわち、運命に立ち向かい、それを転じ、さらには導いていく能力が、これに対して立ち上がり反抗することができます。自己抑制という問題が、まさにここにあるわけです。
2  池田 このことは、あなたが示された、人間存在にいたる生物学的推移を想起させてくれます。つまり、脊椎の延髄から爬虫類の脳へ、旧皮質から新皮質へ、そして最後は前頭葉にいたる器官的発展です。
 私は、この進展は、自由の拡大の過程に合致しているものであると考えますが、いかがでしょうか?
 すなわち、人間は、他に類をみないほど優れた存在にもなりうる一方、他のなにものよりも恐ろしく卑しい存在にもなりうる“自由性”をもっているということができます。自由性とは、いいかえれば、不安定さです。この自由を、人間が価値あるものにすることができるかどうかは、自己を正しく認識するとともに、自己を規制・支配できる力を各人がもつかどうかにかかっていると考えます。事実、人間はその“智慧”を高度に発達させることによって、業の果に直面したとき、それを自らのよりよい未来のために価値を生じていくよう処置することができます。また、たとえば身体的な欠陥はあっても、それを補うことができるのも、その一例です。
3  宿業そのものは、きわめて決定論的ですが、それに対処するうえでの自由が、かなり大幅に人間にはあり、そうした自由をもった存在として生まれてきたこと自体、過去のよい業因による結果なのです。そして、なによりも、宿業の支配・束縛に対処しうるための強い主体性の確立と、生命の力をわきだす根源が第九識にあるのです。
 いうまでもなく、業自体、善の業と悪の業とがあります。悪業とは煩悩や苦しみをもたらす種子であり、この種子が芽を出し成長して第七識以下の領域に顕在化し、煩悩や衝動として働くのです。心理学でいう本能的衝動も、この中に含まれると考えられます。また、条件反射といった後天的な諸本能は、先天的な宿業を基盤としつつ、生誕後の生命活動の経験を通じて形成されたものといってよいでしょう。

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