Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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認識の諸段階  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  認識の諸段階
 池田 あなたが今、明瞭に論じられたように、西洋の知性が外的世界に目を向け、主観的生命活動を客観化してきたのに対し、東洋の英知の目は、つねに主観的認識作用そのものをみつめ、自己の内的生命の世界へと探究を進めてきました。しかし、もとより、これはおおざっぱな立て分けで、細かく検討すれば西洋にも内的世界へ分け入った人びとがいましたし、東洋にも、もっぱら外的世界の探究と技術的な発明に打ち込んだ人びともいたことはいうまでもありません。
 しかし、東洋の精神文化が、人間にとって自らの内的世界の解明とその充実のための貢献をなしたことは、おそらく西洋のそれよりはるかに大きいものがあり、私は、東洋文明の人間観・生命観は、西洋文明の欠陥を補いその歪みを正すに足るものを、かならずもっていると確信しています。
2  とくに仏教においては、仏教者の実践と思索の積み重ねによって、生命の構造に関する詳細な理論が構築されてきました。
 このような仏教の理論の中で、西洋の哲学でいう認識論とともに、今日の精神分析学とも深く関わる問題の一つに、唯識論があります。この唯識論というのは、たんに認識上の理論にとどまらず、その認識という作用をなす主体の生命を問題にした存在論でもある理論です。
 つまり、唯識の識とは“わかち知ること”であるとともに“わかち知るもの”でもあり、認識作用をさすとともに、認識の主体である心自体をも意味しています。こうして認識論と存在論が一体不可分となっていることは、認識主体の心の変革が、認識の作用のうえに新しい視野、世界をもたらすことをあらわしています。
3  さて、仏教では、人間の生命の営みを五つの要因の結合としてとらえます。すなわち、色(肉体)・受(感覚)・想(表象)・行(意志)・識の五つです。この中で中心になるのは、いうまでもなく“識”で、主観的認識作用であるとともに、その主体でもあります。
 唯識論は、この“識”を焦点にすえて、生命の営みの過程をとらえ、さらに、生命の内面の領域へ解明の歩を進めていきます。
 まず、眼、耳、鼻、舌、身(皮膚)の各感覚器官のそれぞれに“識”があるとされます。たとえば眼の識は、眼という感覚器官をとおして外界を認識します。しかし、これらの“識”は、一面的な認識しかできませんから、そこから伝えられた情報を集結し、総合し、全体像をとらえるとともに、それに対して対応を決定する中枢機能が必要です。それを行う識が第六番目の識で、これを“意識”と呼んでいます。意識の機能が行われる場は、いうまでもなく、大脳皮質です。

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