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日蓮大聖人・池田大作

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幸福の問題  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  幸福の問題
 池田 人間は幸福生活実現のためには物質的な条件が満たされなければならないと考えて、欲望の充足のために全力を注いできました。今日までにいたる人間の文化の発達は、ほとんどこのためであったといってよいと思います。理性もまた、この欲望の追求という努力の中で発達し、そのもっている効力が証明されてきたといえるでしょう。
 しかし今日、多くの人びとは欲望と理性が追求してきた、本来は幸福のための条件であり手段であるものを、それ自体が目的であると思っているようです。その結果が、あなたも指摘されているように、一方において動物的なまでに感覚的な生命に退歩するとともに、他方、乾ききった主知主義にとらわれることになっているのだと思います。
 私は、人びとが、本来は目的でないものを目的であるかのように錯覚している原因は、本来の目的、つまり真実の幸福についての明確な考え方が失われていることにあると考えます。
2  さて、幸福とはなにかというのは、かんたんにはいいつくせない、非常に複雑な問題です。幸福とはいかにあるべきかを規定し、それを人に押しつけることの危険性は、多くの人が論じているとおりです。考え方によれば、人それぞれに描く幸福像というものがあってもよいでしょう。また、具体的な幸福像が多様であるばかりでなく、その基本的な考え方も多彩であって当然だといえるかもしれません。
 もとより、幸福がいかなるものでなければならないといった強制は、なにびとに対してもなされるべきことではありません。しかし、たとえば、感覚的な充足にしか喜びを見いだすことを知らないことは、きわめて崩れやすい、はかない幸福観といわなければなりません。もし、感覚的な充足だけが幸福のすべてではなく、もっと深い精神的な充足によって得られる幸福があることを知ったならば、自分の人生を、いっそう強靭な土台のうえに生きていくことができるでしょう。
3  さらに、たんに精神的な充足ではなく、自分の人生を他の人の幸福、喜びのために寄与することによって得られる大きな広がりをもった幸福を知るならば、その人生を、行き詰まりのない、深い基盤をもったものにしていくことができるはずです。
 いかなる幸福を追求するかは、各人の自ら決定すべきことであるにしても、より強靭な、より深い幸福があることを知らされなければ、各人がもっているはずの選択の自由もないことになってしまいます。私は、現代は、ある面では各人の自由を保障しながら、最も根本的なところで画一化を無意識のうちに押しつけ、自由を奪っているように思うのです。
 たとえば、職業の選択の自由も、居住地を選ぶ自由も、現代人は、先祖たちが想像もできなかったであろうほどの自由をもっています。しかし、少年時代から画一的な知識と思考法を施す教育機関に半強制的に入れられ、知らずしらず、自由な考え方を奪われているのではないでしょうか。かつて、職人の徒弟に入った少年は、その手仕事の技を磨くことを、みっちり仕込まれました。彼は、自分の作品を、いかに高く売りつけるかということは教わらず、経済的豊かさを追求すべき目的として、そこに幸福を求めるような考え方は教わらなかったでしょう。ところが、現代では、仕事の技を教わるまえに、貧困こそ悲惨さの元凶であり、富を生み出すことこそ、社会への貢献の道であることを教えられるのです。
 そこでは、具体的に選ぶ仕事についての自由はあります。現代の少年たちは、社会のこともわからないうちに、奉公先を決められて一生の仕事を定められるということはなく、学校教育を終わる段階で、自分で決定すればよいのです。さらに、ひとたび、なにかの仕事を選んでも、あとで、もっと自分の気に入った仕事がみつかれば、転職することも可能です。しかし、経済的利益の追求に目的があるとする考え方は、知らずしらず、染めつけられ、そこには選択の余地はなくなっています。

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