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日蓮大聖人・池田大作

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第三章 新しい社会をめざして  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  第三章 新しい社会をめざして
 池田 資本主義社会にせよ、共産主義社会にせよ、現代の世界で相対峙している二つの社会が、いずれも物質主義に堕し、その結果、人間にとって本質的なものの抑圧を招いてしまっていることは、私もたいへん残念に思っています。
 そこで知りたいのは、これら二つの社会のどちらが早く、この誤りと行き詰まりに気づいて解決できるだろうか、ということです。あるいは、これらとは違う、第三の型の社会が出現しなければならないのでしょうか? もし、そうとすれば、それは、どこにあらわれるかということです。
2  ユイグ 現代の最も絶望的な事実の一つは、相対峙している二つの要素すなわち、一方は資本主義、他方はマルクス主義というこの二つが、互いのあいだに真に実りある対立点をもっていないということです。なぜなら、これらはむしろ、どちらも同じ基盤のうえに立った似た者同士であるからです。その共通の基盤が物質主義です。
 物質主義は明らかに現代文明の欠陥の元凶であり、人びとは、たしかに違った相反するやり方をとってはいますが、それにもかかわらず、この同じ実利主義的な立場を反映し、それを強化している二つの社会形態からどうしたら解決を期待できるか、わからないでいます。
 ここに現代の最も深刻な問題があります。私たちには、十九世紀に創始されたこの実利主義的な根本思想が共通に受容されていることに対して、この事態を転換する、ほんとうの意味での革命の力は、根本的に欠けています。そこにある対立点というのは、具体的現実に対する技術的取り組み方において、どちらが利益があるとするかという認識の問題について残存しているだけです。資本主義社会にせよ、マルクス主義社会にせよ、蘇生と解決の希望をどうして期待できるでしょうか。なぜなら、どちらも、現実に私たちが直面している危機と窒息の原因になっている同じ一つの思考法の連続性のうえに打ち立てられているものなのですから。
 そうとすれば、私たちはこの蘇生の可能性をどこに求めることができるでしょうか? その要素は、現在の政治の盤のうえには準備されていません。
3  しかしながら、自由社会のほうが、もう一方よりも出口に到逹できる希望があることは認める必要があります。事実、権威主義の社会が拠って立っている原理は、恐怖と力によって服従させようということで、それはファシズムでもそうですし、共産主義でも、マルキシズムのあらゆる形態についても同様です。そこでは全面的かつ無制限な服従しか受け入れられませんから、そして異議を表明するものはすべて無効にされますから、選択が対立したとしても、たいした重要性はないのです。
 自由社会だけが、個人に主導的な働きを認めうる社会です。もとより、一つの時代の大多数がおちいっているあやまちに対して、初めから集団全体にその意識が生じているわけでないことは明らかです。それは、他の人びとより明晰で進んでいる精神の人びとにしか浮かびでてはこないものです。
 ですから、それは個人的で多少なりとも孤立した人びとの意識でしかありません。それがあとにつづく他の人びとに波及していったときに初めて一つの集団化に達するのです。自由社会のみが、その発議性と寛容性の原則によって、現実の体制に反対の考え方に、現実の中にある欠陥や危険性を指摘しながら、それに対処すべき手段方法を見いだす機会を提供します。

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