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日蓮大聖人・池田大作

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家庭の保持  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  家庭の保持
 ユイグ 家庭が風化し、現代生活における重要度が議論の余地のないまでに軽くなっていることは、非常に憂慮すべき兆候です。しばしば経済的問題がこれをひきおこしている原因であると指摘されています。もちろん、経済的条件の重要性も否定はできませんが、しかし、もっと深いところに淵源があることを無視してはなりません。まずなによりも、生来的・本能的な起源をもつものすべてを除去し、私たちの生物学的・感情的・精神的存在の漠とした諸条件に応ずるすべてのものを抹消して、そのかわりに合理主義とその独善的原理を据えようとする現代社会の恐るべき傾向です。すでに三十五年前(一九四五年)に、アーサー・ケストラー(ハンガリー生まれの英国の作家)は『ヨガ行者と警察署長』の中で、このドラマチックな対立を明確に示してみせました。
 現代においては、家庭は、伝統によって伝えられた、したがって古くさい風習としてあらわれています。人びとは、むしろ、家庭のかわりに、共通の活動や経済的秩序の連帯性のうえに立った集団や人間的種別、普遍的なものをとることを選びます。それが政党や組合仲間のグループや世代仲間です。かつては家庭の義務について語られたように、他のいたるところで古くなったこの道徳的義務のよりどころとして、組合の義務ということが語られるようになっているのではないでしょうか。
2  このような代替は、現代社会のこうむっている変異と、それが招いている危険性を特徴的に示しています。今日の人びとは、共通の理念とか行動のうえにしか集団をなしません。家庭は、人びとにとって、生物学的基盤に立った一つの環境を供給し、そこで感情的能力が形成され開花します。現代人は、絶えず“人間関係”ということを口にしますし、それは人間関係を保存し再建することを願ってそうするのですが、彼らは、家庭が本来、人間関係の自然の場であることに気づいていないのでしょうか。
3  池田 最近「ハウス(家)はあるがホーム(家庭)はなくなった」ということばをときおり耳にします。たしかに、かつての家庭のもっていた精神的なものはうすれつつあり、社会的要因もあって家庭の機能が減少してきています。しかし、家庭という形態は人間関係の基本であり、人為的に形成された社会的な組織とは異なり、簡単に改変できるものではありません。それは太古から存在する自然のシステムであり、それだけに人間形成に深い影響力をもち、容易に断ち切るわけにはいかないものです。
 たしかに家庭は、その意味では古い形態であり、ある意味では原始的形態であるともいえます。親子、兄弟という関係は生物学的なものであり、文明的なものではありません。しかし、文明化の中で生まれたルールを基礎とする人為的な新しい人間関係によっては果たすことのできないものが、家庭によって果たされています。

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