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日蓮大聖人・池田大作

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侵される自然  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  侵される自然
 ユイグ 事実、工業は、自然の正常な秩序を考慮しないで、人工的な原理に基盤をおいています。自然は、つねに平衡をめざしています。このため、その運行は、すでにみてきましたように、律動的で補整的です。自然は、その弁証法的な歩みによって極端なものや過度のものにつまずかないようにしながら、絶えず自らを修正します。たぶん、これが、生きている自然の最も深い法則です。
 この自然が自ら行う修正を人間は壊しているのです。なぜなら、その知的な体質のために、人間は抽象的な原理によって種々の企図を行い、その論理的推論と連想によって一方的に容赦なく、その企図を進めるからです。その思考は一つの方向を定めると、それをどこまでもまっすぐに進み、はっきりと行き詰まりに直面するまでは、それを正そうとは考えません。こうして失敗にぶつかり、さらには破局にいたるのですが、こうした障害にぶつからないためには、たぶん、曲線を進むべきだったでしょう。
 人間は、その頭で考えることに縛られて、自分がめざす目的に向かって手をまっすぐ伸ばすことしかできません。そして、手を前に伸ばした結果、ついには身体全体の平衡を失ってしまうのです。こうして自分が始めたこの戦いによりよく適応するために、人間は自らを開拓し、もっぱら自分のために実証的・実利的で、理性的な才能を最高度に発展させながら、その半面、事物の深い本性と神秘にふれさせてくれるあらゆる能力を軽んずることによってこんどは自らを侵害しているわけです。こうして、人間は自分自身の不均衡をひきおこしたのです。
 これが今はじまっている新しい時代であるわけですが、その結果もたらされるものは、まだ予見はできません。
2  池田 人間と自然との関係は、人間が、自然を畏れ、敬い、妥協することしか知らなかった時代から、産業革命を爆発点として途方もなく技術を巨大化させた近代にいたって、まったく逆転してしまったかのようにみえます。火を手なずけ、鉄や銅を自由に変形する術を知ったときから、人間の知恵は、それまで奔放にすごしていた他の動物たちにとって、やっかいなしろものになったわけですが、さらには、山を削り、海を埋め、大陸を切断するなど、人間の横暴は、とどまるところをしらないようです。
 生物学上からみれば、人間は長い地球上の生命の歴史のうえで、ほんの最後の部分――もちろんこれは現代を終着点としてみた場合でありますが――に、突然入り込んできた闖入者にすぎません。その新参者が他の動物の生殺与奪を自由にして、生物史を書き換えようとしたり、さらには、地球自体にまで影響を及ぼしかねない自然環境の破壊を行うことは、絶対に許されるべきではありません。あくまでも尊い生命を育んでいる地球という唯一の天体――将来は他にも発見される可能性は十分にありますが、現在においては生命存在の立証されている天体は他にありません――の構成員の一人であり、専制君主ではないことを知るべきです。自らの生存の基盤である地球を破壊することは、自分自身の滅亡につながることは明らかです。
3  私は現在の人類の傲慢をみると『西遊記』という、日本の民衆にも広く知られている中国の物語を思い出します。その中に、さまざまな術をあやつり、宇宙の果てまで飛んでいこうとした孫悟空が、結局は釈迦牟尼仏の掌を越えることはできなかったという話がありますが、人間もまた、その科学技術の力によって自然界の個々の事物を征服し服従させることはできても、この自然宇宙の総体の営みから外へは出られないでしょう。
 仏教では、人間と自然とが相互に依存しており、助け合っていくべき関係にあると説いています。これは気候的に恵まれたアジアの生活環境も、そうした思想を形成するのにあずかって力があったと考えられます。過酷な環境の中では、人間は自然と戦い、自然を畏れる心が働きます。しかし、豊かな土壌、温暖な気候、豊富な雨量のもとでは、自然のうちに農作物が実り、生活を潤してくれますから、そのような風土にあっては、自然は人間を守ってくれるものという思想が形成されやすいでしょう。人間と自然の一体化、融合化が志向されたのも当然かもしれません。

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