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日蓮大聖人・池田大作

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進歩の停止  

「闇は暁を求めて」ルネ・ユイグ(池田大作全集第5巻)

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1  進歩の停止
 池田 まさにおっしゃるとおりです。しかし、進行を急に止めることは困難です。自由経済を原則としている社会で、エネルギーにかぎらず、自然資源の消費を減らすようにするには、どうしたらよいでしょうか? 自由社会では大衆の大部分が、この開発によって物質的利益を受けているのです。
 企業は、競い合って資源を消費しながら、製品を大量に供給してくれます。製品が市場にあふれ、企業間に競争が起こると、商品が安くなりますから、消費者は、そうした事態を期待しているのです。
 もちろん、自由競争をやめて全体主義的な統制経済にすれば、ムダな資源消費にブレーキをかけることはできます。だが、それにともなって、人間のあらゆる行動に対し、権力の干渉が強まることになりかねません。私は、全体主義体制をかつて経験した一人として、これは絶対に避けるべきだと思います。
 したがって結局は、民衆の一人ひとりに、資源が有限であることへの認識が深まり、この良識の確立のうえから、物資の消費も、生産の競争も、自らの意志で抑制していく以外にない、という結論にならざるをえません。
2  とくに原子力エネルギーの問題は、たんに資源の有限性というだけにとどまらず、たとえ、資源は残されていっても、消費した結果として生ずる廃棄物が人類の生存を危うくしてしまいますから、なおさら深刻です。石油資源の場合も、その使用ずみの廃棄物質が大気や水を汚染しますが、原子力エネルギーの場合は、その何倍も大きな危険性を含んでいます。
 私は、資源全般の消費に対する考え方の転換が全人類に徹底されなければならないと訴えるとともに、とくに原子力エネルギーの問題は、過去に人類がぶつかってきたいかなる問題とも質を異にしていることに気づくべきだといいたいのです。つまり、蓄積されている量がある限界まで達しなければ無害か、有害であっても致命的ではないのが、核以外の物質の汚染でした。ところが、原子力エネルギーの廃棄物の場合は、それがどんなに少量であろうと、かならず致命的な害を及ぼします。
 その意味で、原子力エネルギーの開発と実用化は、その目的がたとえ平和利用であっても、慎重に考慮すべきであると考えます。そして、もし、絶対的に、永久的に安全な、廃棄物の処理法が発見されれば、そのとき初めて利用を再開してもよいと思います。しかし、それまでは、いったん中止しても、危険な廃棄物を生じないエネルギー資源の開発、循環可能で枯渇の恐れのないエネルギー資源の開発に、現代科学の総力を傾注して取り組むべきであると思うのです。
3  もとより具体的にどうすればよいかという案は、私は科学の専門家ではありませんから、言うことはできません。しかし、あなたも言われているように、自然との協力関係を根底にした行き方にならざるをえないのではないかという予感がします。太陽のエネルギー、また、この地球上を循環している水、大気の運動エネルギー、また引力のもつ巨大なエネルギー等は、そうした希望の実現の糸口を提供してくれるのではないでしょうか。たんに初歩的な水車や風車というのでなく、もっと進んだ科学の英知をもってすれば、かならずや効率の高い、しかも応用範囲も広いエネルギー資源として開発できるのではないかと期待します。
 それに加えて、事実と数字にもとづく予測というものは、教条的で必然的に理論的な性格をもっていることも考慮に入れる必要があります。科学的楽観主義に過度の信頼をおき、そのことが予測の中に入れられなかったならば、予期しないことが起こる可能性はつねにあるのです。過度の悲観主義は、その反動として起こる過度の楽観主義と同じ欠陥を生ずるでしょう。未来はけっして正確に割り出せるものではありません。
 あなたが要約して示された危険は過小評価すべきではなく、不慮の事故を考慮に入れておくことが正しいでしょう。しかし、重大で、いずれにしても考慮に急を要する危険については、十分に考慮すべきであるという点で、私たちは一致をみたわけです。

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