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親子の間の倫理  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  親子の間の倫理
 池田 子が親を大切にしなければならないということは、東洋、特に日本や中国などにおいて、儒教道徳によって強調されてきたところです。しかし、近代化にともなって、儒教道徳は封建的抑圧の元凶として排斥され、親子の間の倫理は軽視されるにいたりました。
 もちろん、この傾向は、儒教道徳の支配力低下だけが原因ではなく、社会的条件の変化も大きい原因になっています。たとえば、住宅事情の悪化による大家族制の崩壊(いわゆる核家族化)、社会福祉の充実によって老人の面倒を子供がみる必要が必ずしもなくなったこと、女性の地位向上によって老人との同居を嫌う妻の発言に従わざるをえなくなったこと等々が挙げられます。
 にもかかわらず、私は、儒教道徳の影響力消失が、最も根底にある原因であろうと思います。なぜなら、日本についてこれを見ると、外的条件は明治の近代化から急速に進行していたにもかかわらず、第二次世界大戦が終わるまでは、親子間の倫理はきわめて強く維持されており、戦後のこの倫理の崩壊後に、変化が急激に顕著化したからです。
 ところで、こうした親子の関係の変化は、西欧社会でも同様に認められるのでしょうか。その場合、かつてのキリスト教なり西欧の精神基盤の中に、親子間の倫理を規定するものがあったのでしょうか。それとも、それは、キリスト教の凋落なり影響力低下とは無関係の、たんに社会的・外的状況の変化にのみ起因しているのでしょうか。また、親子の間の倫理の低下によって、どのような得失があると教授は見ておられるのでしょうか。
2  ウィルソン キリスト教では、近年、親孝行そのものは、あまりはっきりと要求しなくなっています。もっとも、キリスト教徒はユダヤ教徒とともに、十戒の第三(注1)の戒律「汝の父と母を敬え」を守ることが期待されてはいます。しかし、儒教が若い人々に植えつけたような絶対的な服従は、西洋の伝統にはまったく見られません。このため、西洋では、親の権威に対する態度は、たぶん日本ほど急激には変化しなかったと思います。
 西洋での変化は、育児の新しい理念や個人主義の強まり、個人の自律への要求の高まり、拡大する共同体に対する責任感の一般的低下などに関連して起こったものです。技術の変革は、若者たちに(オートバイや自動車によってであれ、テレビやディスコを通じてであれ)家庭の影響を逃れる手段を与えました。彼らの社会的経験は変容し、永続的でありながら絶えず変化する若者文化が、彼らの日常生活の一部となりました。彼らは技術的「ノウハウ」を急速に身につけるため、道徳観念が徐々にしか習得できないものであることに気付きません。彼らはまた、両親がしばしば技術面に関して「過去の人」であるというだけの理由で、親のもつ価値をないがしろにする傾向があります。
 今日の親たちは、まぎれもなく、ほんの四、五十年前に自分たちが扱われたのとは非常に違ったやり方で、子供たちを扱っています。親たちは、まだほんの幼い子供でも、すでに道徳的な存在であるという考えから、道徳的訓練を施すという多くは骨の折れる仕事に携わらなくなっており、たとえこのために子供が問題を起こしても、親の責任は問われません。
3  たとえば思春期の子供たちが、疑わしい行動を決意した場合などに、親たちがこのごろよく使う言葉は「自分の人生なのだから」という言葉ですが、その意味するところは「私には責任がない」ということなのです。従順さが期待されることは、以前に比べてはるかに少なくなっており、「従順」という言葉そのものが、権威的な、古くさい響きをもち始めています。
 子供たちへのこうした新しい態度は、子供たちの創造的な資質を発現させ、表現させようという、許容主義に重点を置くものです。この態度は、かつてのビクトリア朝時代の「大人の会話に口をはさんではいけない」という、子供を抑えつける態度への、分別ある反動として始まったものです。この反動が極端に走ってしまったこと、そして、それが精神病理上はるかに悪い結果や、文化的価値の侵蝕を招くかもしれないことは、今日、広く認められています。これは、時流に逆らえずにいる親たちでさえも認めるところです。
 子供たちは、自己主張や自己決定をするようになっています。彼らの多くは、マス・メディアから引き出した価値観を仲間のグループ内に反映させながら、物質面での小さな享楽主義者へと急速に育っていきます。若者たちの、高額で責任をともなわない収入と、製造業者たちの、一時的な、したがって無駄な製品の消費によって、商品回転率を高めようとする要求との経済的な因果関係については、ここでは論じる必要がないでしょう(ただ、一つの結果として、たとえば娯楽の面では、若者たちはますます自分たちの利用しやすい施設や、活動や様式だけにしか赴かなくなっていきます)。彼らは家庭で甘やかされているため、同じ甘えへの欲求が、未熟な彼らの日常生活の広い領分にまで尾を引いています。これこそは、親たちのしつけの厳しさが弱まった結果の一つと考えてよいでしょう。
 年配者を敬い、従うべきだということは、伝統的な諸文化にほとんど普遍的なものです。キリスト教も、こうしたしきたりや習慣を神聖化し、幾世紀にもわたって親孝行の観念を強めてきました。

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