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家庭の未来について  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  家庭の未来について
 池田 現代社会において家庭の占める位置は、極度に低くなってきており、家庭の崩壊さえ憂慮されています。
 かつては、貧しくとも、何世代かにわたる大勢の家族が、一つの家の中でたがいに支え合って生きていました。よほど豊かな貯えがないかぎり、老人たちが仕事を息子たちに譲った後は、別に家庭生活を営むことは不可能で、ほとんどが子供たちに養われていました。
 ところが、近代社会では、老人に対する福祉が充実し、息子夫婦たちは、老人と同居することによる人間関係の煩わしさを嫌って、そうした施設に移るよう勧めることがよくあります。また、幼い子供たちは、成長の過程において、かつては両親に依存しなければなりませんでしたが、今日では、公共の養育施設が整備し、両親ともにいなくとも、育つことはできます。
 そうした意味で最も進んでいるのが北欧諸国で、未婚の女性が産んだ幼児も、希望すれば公共の施設が引き取って養育する制度ができております。これは、もちろん、子供や女性のためには素晴らしいことですが、そのため、子供に対する責任感をもたない親を作り出すという、憂うべき結果も生じています。
 現代においては、家庭そのものの存在意義が急速に消えつつあるのです。私は、この傾向がどこまでも進んでいくとは思えません。なぜなら、こうした施設の運営のために、一般市民の肩にかかる税負担が、あまりにも大きいからです。
 さらに重要なことは、家庭のみが果たしうる全人格教育の重要性が、必ず顧みられる時代がくるだろうということです。老人との同居にはたしかに煩わしさがともなうかもしれませんが、世代から世代へと伝えられる知識や経験は、人生・生活に直接関わる、大切なものです。そして、子供たちは、両親や祖父母の愛情に包まれ、兄弟や姉妹たちと触れ合う中に、人間として最も重要なものを身につけていくのです。
 家庭が未来にたどる運命について、教授はどのようにお考えになっていますか。また、その場合に、宗教が再び重みをもつにいたるかどうかについては、どう予想されますか。
2  ウィルソン 二十世紀における社会的変化の速さは未曾有のものであり、したがって現代人が世の中で経験することは、その両親や子供たちの経験とは根本的に異なったものになります。新たな進展があまりにも急速に起こるため、個人は、一生の間にも、若いころの習練が、その後の人生で出合う新しい現象に備えての、十分な準備ではなかったことに気付きます。
 世界中で、そして社会の各層において、人々は、今日、新しい知識に出合い、新しいタイプの要求に対応し、新しい型の社会的組織に参加することになります。そして、仕事のためにも、家庭の中でも、また余暇のためにも、新しい技術、新しい器具、新しい方法を学ばなければならなくなっています。現代人は、繰り返し再教育を受ける必要があることを感じているのです。
 過去においては、個人は、自分が送ると予想される人生に必要な基本を子供のころに学んで、その後の学習は累積的な過程、つまり経験の集積を増すことであると考えていました。これに対して、今日では、累積という要素は大きく減退しています。むしろ、経験は、人を時代遅れの方法に執着させるため、しばしば障害となります。学んだことを忘れ、学び直すことが、日常の必要事となっているのです。
 これらのすべてが家庭に与えた影響は、次のようなものです。つまり、かつては一世代の経験が次の世代へと伝えられ、過去の(しばしばその特定の家族の過去の)知識が、あらゆる知識の中で最も重要な知識でした。これによって、各個人が自己の独自性を自覚したのです。しかし、今日では、あらゆる技術部門がますます重要な位置を占めつつあり、過去の知識はもはや使われなくなるばかりか、邪魔とさえみなされる傾向が強まっています。
3  池田 未来への創造ということ自体は、疑いもなく素晴らしいことです。創造することにこそ人間の優れた特質があり、現代文明が過去の桎梏に囚われないで、未来への創造に打ち込んでいることは、それ自体としては称賛されてよいと思います。
 しかし、反面、人間は過去からの伝統に深く根を下ろしている時に、精神的な安定性を得ることも事実です。それは、ちょうど、木が大空に枝を伸ばし、葉を茂らせ、花を咲かせ、実を生らせるのと同時に、他方では、大地に深く根を張る必要があるようなものです。大地に下ろした深い根がなければ、安定性は失われてしまいますし、いまは盛んに葉を茂らせ、実を生らせていても、やがて栄養分は途切れて、全体が枯れ衰えていくでしょう。
 過去は、一面では桎梏になりますが、同時に他面では、新たな発展をもたらす養分を提供してくれるものです。桎梏という一面のみを見て、他方の養分をもたらす土壌という面を忘れ、無視して、過去を否定し、過去とのつながりを断ち切ることは、きわめて不幸なことであると私は考えます。
 現代の若者の間にも、この点の認識は、かなり強まってきているように思われます。わが国で最近高まっている歴史への関心は、その一つの表れといえます。しかし、現状では、それはたんなる関心であり、日常生活の中で過去に束縛されることについては、相変わらず拒絶的です。

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