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科学の発達の是非  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  科学の発達の是非
 池田 今日の科学技術の発達には驚異的なものがあります。未来も、今日のそれを上回る勢いで進むであろうことは、多くの人々が予測しているところです。しかし、同時に、科学の野放図な発達を見ていると、それでよいと全面的に認めるわけにはいかない面もあるように思われます。
 人間を殺傷するための軍事的研究はもとより、たんなる欲望充足のための技術開発や、環境を汚染してやまない産業の発達など、憂うべき状態が続発していることも偽らざる現状です。たしかに、軍事的研究が、派生的に、他の分野の技術の発達に貢献していると主張する人々もいます。しかし、それは、専門的に研究すれば、もっと容易に開発できたかもしれないものです。また、人間の限りない欲望を充足させるだけの技術開発は、逆に、人間自身に内在するさまざまな力を奪うことさえ考えられます。
 これは極端な例ですが、日本では、鉛筆を自動的に削る道具ができてから、子供たちはナイフを自由に使いこなせなくなっている、という報告がなされています。私が言いたいことは、こうした道具を開発するのがいけないということではなく、科学や技術の発達には、常に両面の結果があるということです。遺伝子を自由に創造したり組み換えたりという実験も、どんな後遺症が人類に残るかもしれないという危険性を常にはらんでいます。
 こうした危険性が、危険性に留まっていないで、害となって現れることが十分に予測される場合、宗教者は、野放図な科学の発達に対して発言すべきだとお考えになりますか。それとも、それは他の分野への好ましくない干渉とお考えになりますか。
2  ウィルソン 科学は、いまや現代社会において、各大学においても、専門の研究施設においても、また産業においても、完全に制度化されています。強力で、多種多様で、多岐にわたる科学の影響が、いまこそなんらかの形で社会的監視を、そしておそらくは社会的管理すらも、受けなければならない潮時なのです。科学は、われわれすべての生活に影響を与えます。自分たちの生活や社会に科学がもたらす影響の決定権に、何の発言力ももたない、文字すらも知らない未開社会の人々の生活にさえも、影響を及ぼしているのです。
 科学者たちが仕事を遂行するためには、きわめて幅広い自由を必要とすることは明らかです。しかし、その自由は、責任の倫理と均衡を保っていなければなりません。大部分の科学者は、個人としては十分に責任感のある人々であっても、科学自体が、いまやあまりにその内部で多様化し、その分野もあまりに細かく区分され、その活動も――主として公共の費用によって――あまりに完全に制度化されていますから、おそらくいまこそ、科学における責任の倫理というものが、正式に、恒久的に、また公的に示されるべき時がきているのでしょう。
3  科学知識の利用法を規制するような、ある倫理規範が制度化されることは、まだ可能性の域を出ていないことなのでしょうか。少なくとも西洋諸国では、医療や法曹等の職業を営むうえでの倫理規範は機能しています。それに比べて、科学の規制がはるかに複雑であることは周知のことですが、しかし、これらの倫理規範が、科学技術の倫理への基礎的な規範、もしくは少なくとも参照例にはなるでしょう。
 科学者は、医師や弁護士に比べれば、依頼者対受託者という直接の関係において仕事をすることが、はるかに少ないものです。科学者の仕事は、もっとずっと細かい専門分野に分化されています。しかもそれは、(医学でも似たような傾向が生まれていますが)秩序立ったチームワークに依存する度合いがはるかに大きいのです。
 科学がもつ多様性と、その将来の多面的な発展性を考えれば、科学者だけでは十分な倫理規範を導き出すことも、運用することもできないことが分かります。そうした規準が効果的なものとなるためには、科学技術を利用する人たちだけでなく、一般大衆の代表者からの支援が必要でしょう。

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