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宗教と社会的価値観  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  宗教と社会的価値観
 池田 一般に、宗教がどのような影響を人々に、あるいは社会に与えるかを調べる場合、その宗教の組織形態、社会への関わり方、組織を構成している人的要素、またそれを受け入れる社会背景等を考えなければならないのは当然ですが、と同時に、その宗教の教義は、いかなるものなのかという内容的検討をなおざりにすることはできません。
 たとえば、十二世紀の日本において、西方にいる仏(阿弥陀仏)に救いを求める宗教(念仏)が広まり、その時代に自殺者が相次いだという記録が残っています。これについては、当時、戦争が頻発し、天災地変も続いた時代であったという外的条件と、現実社会を離れ、理想世界への転生を説いた念仏の教義という内的条件とが、相乗作用をもたらしたと考えられます。
 ところで、こうした宗教の教義内容を検討していった場合、それがどれほど人間生命を正しく深く捉えているかという意味で、教義の浅深高低を判断していくことが、どうしても大切になると考えられます。普遍性に欠けた、また現在のさまざまな知識に太刀打ちできない幼稚な内容の宗教であるのか、あるいは、より広い人々の共感を呼ぶ教えであるのか等、やはり浅深高低の判定がなされなければなりません。一つの宗教が社会にどれほどの影響性をもたらすかを考えていくうえにおいては、それは重要な作業になるのではないかと思います。教授はこの点について、どのような見方をしておられるでしょうか。
2  ウィルソン 宗教の有効性にもあれこれの形態があり、なにをもって有効とするかは、まだ決着のついていない問題です。われわれが「有効性」というとき、それはたぶん、第一に、人々の生活にどれだけの影響を与えているか、第二に、ある一定の明示された目的を達成する能力があるかどうか、第三に、それらの目的が、何か別の外的な規範を基準にして考えた場合、望ましいものであるか否か、を指していると思います。ここでは、あなたが述べられた付加的な項目――組織、社会への関わり方、組織構成員の資質――は、しばらく置いておくことにします。
 かつて宗教の教義そのものが、時には強力な、おそらくは決定的な影響を、社会の出来事に与えたことがありました。あなたは、十二世紀の日本で、阿弥陀仏信仰の影響によって多くの人々が自殺したことを例に挙げられましたが、私も、もう一つの事例を挙げてみましょう。四世紀北アフリカのキルクムケリオ派(注1)の信徒は、殉教によって神の恵みが得られるとの教えに非常に深い感銘を受け、その結果、なかには非キリスト教徒を招いて殺してもらう者さえ現れました。彼らはこれによって、「キリストのために死んだ者」に約束されているとされた、死後の特別の恩寵に浴することができると思ったのです。
 もちろんこれは劇的な例ですが、ここに見られる反応の極端さは、さほど劇的でもなく極限的状況でもない多くの事例にも見られ、宗教的信条が社会生活に数々の効果をもたらしてきたことを示しています。もちろん、それらの効果は必ずしも予測されなかったものかもしれません。人間は、時には指導者の忠告に背いて、ある種の観念に確信を抱き、その結果、本来思ってもいなかったようなところまで、その観念を追求するということがあるものです。
3  キリストの再臨が間近いことを主張するのは、キリスト教徒の周期的現象ですが、これが時には、人生や社会が間もなく変革されるという期待を呼び起こし、その変革を早めようとして、一部の信者が革命的行動に走ることもありました。宗教改革初期のヨーロッパや、ずっと降って、アフリカやメラネシアには、「黙示録」に(注2)しるされた事柄への抑えきれない期待から、人々がいかに怪奇で危険な行動を取ったかを示す事例がふんだんにあります。
 もっと世慣れた大衆の場合でも、時折、宗教的信条に動かされて、信仰は生命よりも大切だと思い込んでしまうことがあります。種々のキリスト教セクト――ペンテコステ派、クリスチャン・サイエンス派、エホバの証人派等――の信者は、ある種の医療法を拒否し、なかにはそうした医療を受けることよりも死を選んだという人たちもいます。これらはすべて、宗教的信条がもたらす効果を示す例であって、それが本来意図した結果を示すものではないのです。

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