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教義的規制の拡大傾向  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

前後
1  教義的規制の拡大傾向
 池田 宗教は、その教祖が教えを確立した当初は教義的に簡潔であっても、教団が形成され、歴史を経るに従って、教義的規制の範囲が拡大する傾向にあります。
 たとえば、キリスト教の歴史についてこれを見ると、当初は、私たちの住んでいるこの大地が球形をしていると考えようが、平らであると考えようが、教会は干渉しなかったと聞きます。ところが、ルネサンス期になりますと、大地を球形であるといったり、地球が動いていると主張することは、キリスト教の教義に対する重大な反逆であるとされるにいたりました。
 同様の傾向は仏教にもありました。さきにも述べましたが、初期の仏教においては、殺生をするな、盗みをするな等の五戒・十善戒が基本でしたが、僧団の形成・発展にともなって、男性の僧のためには二百五十、尼のためには五百もの戒律が作られています。さらに、仏教が社会の中に定着するにつれて、殺生を禁ずる戒のために、猟師などは、この戒に背く悪業の人々として社会的に疎外され、卑しまれました。
 私は、宗教を弘め、また自ら実践する人が常に心しなければならないことは、その最も根本的な精神を自らが正しく実践していくことだと考えます。他の人々に対して宗教の教義を押し付けようとし、いわんやそれに反しているからといって、社会的制裁を加えたり抑圧したりすることは、自ら宗教の精神に背いた行動になってしまっていることに気付くべきです。
 すなわち、教義的規制は、その範囲を拡大するのではなく、常に、自らができるかぎりその原点に返り、自らに帰着させていくことをこそ目指すべきであると考えていますが、いかがでしょう。
2  ウィルソン 社会学者の間で「制度化」(注1)として知られる過程は、すべての宗教運動に固有のもののようです。初期の活力、簡素さ、カリスマ的魅力などは、時とともに日常性と複雑性に道を譲り、官僚的機構の台頭を許し、諸々の規則が設けられることになります。
 成功を収めているどの宗教運動も、遅かれ早かれ、しかも通常は早い時期に、統合的な組織機構となるものです。そこに一定の典型的な進展、つまり、宗教で出世をする専従聖職者の階層化、昇進に関する規則、機能の分化(部門化)、作業の重複の排除や訓練の慣例化、教理問答書や表現形式や決まった手順などの作成等々が生じます。
 こうして、一つの運動は、ますます組織化された手順や対応に依存するようになります。新しい状況やジレンマは、直截率直な本来の信仰表現に解説を加えたり詳細化を施す必要を呼び起こし、その結果、あなたが述べられたような過程が、着実に進行することになります。
 精神主義的な気風が、法律に則った規則の体系へと転化していくのが、すべての大宗教に共通する変化のパターンです。このため、本来は宗教集団を意味した言葉が、私たちの一般用語の中に――たいていは軽蔑的な用語として――入ってきています。たとえば、律法尊重主義を「パリサイ主義的」、学識を重んじることを「タルムード的」、詭弁を弄することを「イエズス会的」、純粋性に細心の注意を払うことを「ブラーマン的」、道徳に口やかましいことは「ピューリタン的」といった具合で、これらは、それぞれの特徴的な傾向性を簡明に表現しています。
3  あなたが示唆されたように、規則を詳細に作り上げることは、宗教にとって重荷になります。規則は、往々にして、イスラム教のウラマー(法学・神学者)のように、もっぱら規則の解釈を専門とする階級、あるいはユダヤ教のラビ(律法博士)のように、純粋性を精密に保つことを専門とする、特殊な階級によって維持されます。
 宗教的義務の強要は、特定の宗教が特定の地域で支配的になった場合に、共通して見られます。もちろん、こうした強要が最も活発になされるのは排他的な宗教の場合ですが、その他にも、時として、世論が喚起された場合に見られます。
 少なくとも、最近にいたるまでは、カトリックの村においても、ヒンズー教の村においても、信仰上神聖な特定の象徴的事物を無視する村人がいたとしたら、その人は大胆不敵な人物とされたことでしょう。神聖な牛を十分敬うこと、あるいは教会の戸口で跪くことなどは、日常生活の習俗の一端であり、したがって、その土地の人々に課せられたことでした。もちろん、人々は、義務が強制されるような事態を避けたり逃げたりするのが得意ですが、伝統的宗教による慣習の浸透が、宗教による社会的強制の一形態であることは認めなくてはなりません。

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