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宗教の正統性を決めるもの  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

前後
1  宗教の正統性を決めるもの
 池田 宗教の正統的権威は、究極的には何によって正当化されるものなのか、という点について考えてみたいと思います。セクトは、完全な真理は自らが独占していると主張するのが通例ですが、これには、もちろん旧宗教は反発し、相互に真理の所有権を巡って対立します。この時、その正統的権威を巡って暴力が介入する場合や、政治権力との野合が図られることがあります。
 中世のキリスト教の場合、そうした権力との野合による勝利が、そのまま正統性の証明と考えられていたように思われてなりません。アタナシウス派(注1)がアリウス派(注2)を破って正統性を確立した際にも、ローマ皇帝の権力との結びつきが見られますし、カトリック教会とプロテスタントの争いも、結局は権力者同士の争いが背後にあったことは、否定できないと思います。
 これに対して、仏教の場合は、インドでも、中国でも日本でも、権力は正統性の決定には介入せず、(もちろん、例外も少なからずありますが)宗派同士の教義に関する問答で決められるのが一般的でした。こうした正統性を決定づけたものの相違と、その根底にある考え方の違いを考えてみたいと思います。
2  ウィルソン 宗旨の異なるキリスト教徒がたがいに呪い合い、また暴力に訴えたという歴史的事実の主要な原因は、信仰上の矛盾を全面的になくすことに、強く執着したことにあります。キリスト教の神学には、内部的に矛盾のない、首尾一貫し、系統立った、単一的な教義体系を完成したいという、強力で持続的な動きがありました。
 “啓示”(注3)という考えの勝手気ままさがあったため、そうした努力は、キリスト教諸思想の複雑な源泉をなんとか融和させようとする厄介な仕事でした。この仕事にともなったものに、いくつかの周知の問題があります。たとえば、終末論に関する未調整の理論体系、神秘的な(ということは知的に理解できない)「三位一体」の教義、さらには、聖書についての字義通りの解釈と象徴的な解釈の相違などが、それです。
 キリスト教徒は神の全知全能を主張しますが、この点にすら問題があります。つまり、神がすべてを知っているなら、すでに神は未来の出来事をも、すべて知っていなければなりません。ところが、神が未来についてすでにそのように知っているとすれば、もはや神が考えを変えることの可能性はなくなるのであり、そうするとこれは、全能であるという主張を著しく損ずることになるわけです。
3  このように、未調整の主張がいくつもあるわけですから、キリスト教徒がその奉ずる教えについて大いに論争を繰り広げてきたのも、驚くには当たりません。たった一つの置き間違えられた語句や句読点ですら、時には、争い合う当事者同士を不和にするのに十分だったのです。たがいの強調点が移行するのにともなって、それぞれの教派がもつ全体的な倫理的雰囲気にも、また、それぞれが影響を与えた文化にも、相違が生じていきました。
 このことは、人間には自由意志があるが、神はすでに各人の運命を決定しているとするカルヴァン派の主張と、これに対して、神の予知は否定できないにせよ、主たる問題については救済を選ぶ機会が個人にあるとして、その力点を覆そうとしたアルミニウス主義者(注4)の主張の例によって、説明づけられるでしょう。オランダやスコットランドのようなカルヴァン主義的な文化と、十九世紀のイングランドの労働者階級のように、アルミニウス主義の影響を受けた人々との間には、著しい雰囲気の違いがあります。
 西洋の政治権力は、伝統的に、宗教による正当化や合法化を求めてきました。国王たちはさまざまな要求を出しましたが、そのためには神の超越的な支持が不可欠でした。教皇や司教たちは国王の戴冠を司り、その返礼に、彼らの宗教を支える世俗的強制力の行使を要求しました。教会と国家は密接に結合していたのです。

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