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理論と実践  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  理論と実践
 池田 東西の思想・宗教を比較する場合に、基本的に踏まえておかなければならない事柄に、理論と実践の問題があります。
 西洋でも、元来は実践を重んじたと思いますが、特に近代以後の思想・哲学の伝統では、理論と実践を区別し、理論により大きい価値を認めているように思います。
 これに対して、東洋では、実践を通じて得られる理論、すなわち智慧が、真実の理論であるという考え方が一貫して伝えられています。特に仏教では、伝統的に実践的関心と結びつかない理論を排除してきたといってよいでしょう。
 有名な「仏陀の沈黙」という話がありますが、これも、実践を通じて種々の煩悩、エゴを拭い去っていくならば、おのずから明瞭な智慧を得ることができるという考え方を示しています。煩悩への囚われや生命の汚れを離れた境地、すなわち、仏界の智慧に映し出される宇宙と生命の実相が、仏法の教える真理の骨格とされます。
 私は、現代の西洋の人々が東洋の仏法を学ぶに当たっては、このような、実践と結びついた理論であることを、まず認識することが肝要であると思います。また、その実践についても、東洋仏法の実践は自身を離れて外へ向かうのではなく、まず自己の生命の内奥に向かう実践であり修行であるところに、大きな特色があることを知らなければなりません。こうした仏教の示している理論と実践の融合について、教授はどのようにお考えになっていますか。
2  ウィルソン 西洋の伝統にあっては、哲学も神学も、ともに高度に専門化した理論的な学問分野になっています。専門化の進展と、全学科がアカデミシズム(純理論主義)へ向かう趨勢は、西洋世界における教育の発展の顕著な特徴になっています。
 当然のことながら、今日、西洋では、哲学者に実践的指導を求める人はいませんし、専門の哲学者の多くがきわめて非実践的な人たちであることも、当たり前になっています。また、社会の出来事についての彼らの評論も――それらは往々にして経験主義的な証明や分析に欠けることがあるのですが――、政治・社会問題の解決には、概してたいした影響をもたらしません。
 神学についても、ほぼ同じことがいえます。神学の関心は、敬虔な一般信徒の関心からさえ、かけ離れていることが多いのです。神学者は、宗教の慣行にはたしかにある程度の影響を与えますが、彼らの思索が及ぼす効果は間接的であることが多く、また必ず議論を呼びがちなものになってしまいます。一般信徒は、神学上の見解とか、理論や典礼の刷新とかには、往々にして疑念を懐いています。
 もちろん、経験主義や実用主義(プラグマティズム)が西洋社会の中に開花したことは確かであり、科学技術は、経験主義的な手順と実用主義的な考査によってのみ発達してきたのでした。自然科学や応用科学が、神学から完全に独立し、哲学からもかなり大幅に離れて独自の道を歩んできていることは、歴史的事実です。
 科学者たちは、その仕事の中で、直接、哲学的命題に頼ることはあまりありません。今日では、まったく彼ら自身の学問分野から生まれた手法や手順によって、仕事を進めています。このような学問の自律性は、宗教の威信が喪失していることと、決して無関係ではないのです。
3  宗教は、今日、多くの人にとって、非実用的で時代遅れのもののように思われており、その結果、棄て去られつつあります。伝統的宗教に代わって、現在、多くの新しい宗教運動がある程度成功しているのは、現代の諸問題への実際的な治療法と称するものを提供しているからです。
 キリスト教は、信仰者に要求される行いに関しての一定の基準を明細に述べてはいますが、同時に、きわめて一般論的な倫理を伝える傾向も帯びてきています。この意味では、キリスト教もまた、各個人の人生にもたらす、その変革力に最大の影響力を見出そうと努力しています。このことは、特にプロテスタントの場合に当てはまることですが、カトリック信仰の伝統や、新しいカリスマ的刷新運動にも、間違いなく見られます。
 キリスト教神学とキリスト教的実践とは、完全に一致しているとは言い難いでしょうし、事実、この両者はいずれもあまりに多種多様であるため、一概に論ずることはできませんが、しかし、キリスト教信仰の傾向性としては、現代世界によりよく適応するのに必要な資質を各個人に具えさせようという、内的な方向へと向かってきています。

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