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日蓮大聖人・池田大作

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宗教における寛容  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  宗教における寛容
 池田 多くの、独自の教理体系をもった宗教は、「“本当の”真理を有しているのはわれわれだけだ」と、それぞれ思っています。なかには寛容性を示そうとする宗教もありますが、それにしても真理の保持の仕方、捉え方は他の宗教にはないものであるという優越性を信じています。また、その自負がなければ、一つの宗教として自立する基盤がないともいえるでしょう。
 それぞれが、唯一の真理をもっている、あるいは真理の捉え方において唯一であると確信するところに、宗教、さらに普遍的には思想の特質があるといえましょう。日蓮大聖人の教えを奉じている私どもの場合、真理は普遍的であって、他のさまざまな宗教あるいは思想は真理の一部分を担っているが、日蓮大聖人の仏法はそれらを統括した教えであるという確信をもっています。したがって、他の宗教あるいは思想が誤っているのは、その教理や思想自体でなく、部分を全体と見、部分観をもって全体観として押し付けようとする、その捉え方にあると考えているわけです。
 しかし、この場合でも、真理(統一的真理)の保持は唯一であると信じているわけですから、表現は異なっても、特質は変わっていません。また私たちは、そうした確信をもつことは不寛容と見えるにしても、正しいことだと思っています。
2  こうした考え方が、宗教・思想の違いによって起こるさまざまな葛藤の原因の一つになってきたことは、よく知っています。しかし、教義における絶対性を確信することと、教義をひろめる手段における不寛容、特に世俗的な権力などを用いての不寛容とは、まったく違うはずです。歴史上に見られる、宗教における確執のほとんどは、後者の不寛容が原因と考えられます。
 私は、宗教における寛容について論ずる場合、教義に関しては絶対性への確信があって当然であると思っていますが、弘教宣伝においては絶対に寛容でなければならない、つまり、いかに教義の優越を信じていても、それを世俗的な力で押し付けることをしてはならないと考えています。真理の唯一の保持への確信と寛容の精神との両立の道は、ここにしかないと考えていますが、教授はどうお考えでしょうか。
3  ウィルソン 宗教的寛容は、キリスト教世界の歴史においては、きわめて徐々に確立されたにすぎません。キリスト教徒は、ごく初期の時代から迫害を受け続けたため、彼らの宗教が国教になると、直ちに他宗教に対して迫害を加え始め、これが何世紀にもわたって続けられました。
 教会を形成したキリスト教は、「汝の敵を愛せよ」という命令や、「柔和であれ」、「謙虚な精神をもて」、「他者を許せ」といった美徳の勧めにもかかわらず、異教徒、異端者、反対者、他宗教の信者などを追及するに当たっては、冷酷無情であることを実証してきました。キリスト教は、批判も反対も許さない排他的信仰でした。ルネサンス期には寛容の態度への動きもいくぶん見られましたが、これも、無信仰の一般大衆や良心的な反対派に対しての寛容というよりは、知的環境の中で示された寛容であり、このためキリスト教の記録は、十七世紀までは、無分別な確信と、ほとんど緩和されない不寛容の記録になっています。
 キリスト教徒であれ、イスラム教徒であれ、またはその他の宗教の信徒であれ、宗教的不寛容の責を負うべき人々は、通例、彼らの大義の正しさをまったく確信しきっていました。また彼らは、そうした不寛容そのものが、長い目で見ればその犠牲者たちのために示されたものであって、それらの犠牲者たちが最終的に救済される見通しが少しでも立つためには、それは必要なことだったのだ、と自らに言い聞かせてさえきました。

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