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信教の自由  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  信教の自由
 池田 思想・良心の自由の淵源的存在ともいえる信教の自由は、特に西欧の歴史において幾多の犠牲によって勝ち取られた、尊い人類の権利です。私は、この信教の自由を守ることが、人類の基本的諸権利を守るうえで、根源的かつ最大に価値あるものと考えています。
 ところで、この信教の自由とは、文字通り、いかなる宗教であれ、それを信ずる自由を許したものであることは当然ですが、この信教の自由の中には、布教・宣伝の自由も当然含まれると思います。
 しかしながら、国によっては、各人が信ずる自由は認めるが、布教する自由は認めないとか、無宗教を宣伝する自由を認めても、宗教の宣伝は認めないというように、信教の自由と布教の自由を分割して解決しているところがあります。特に社会主義諸国における信教の自由は、こうした内容のものが多いようです。
 もし、布教・宣伝の自由が認められないとすると、宗教の発展は望めませんし、現状を維持することさえも容易ではないでしょう。そのうえに、信仰をもたない自由を宣伝することのみが許される「片方のみの宣伝」が行われた場合には、宗教はやがて縮小の一途をたどり、ついにはまったく形骸化してしまうであろうことすら、十分考えられることです。
 これでは、真実の意味での信教の自由にはならないと思います。あくまでも布教・宣伝の自由を含めた信教の自由であってこそ、初めて人間の良心が保たれると私は考えていますが、教授の信教の自由に対する考えをお聞かせください。
2  ウィルソン いかなる人の信仰も弾圧されてはならないこと、またその信仰がいかなる他者の信仰とも同等の立場を与えられるべきことは、民主主義のどの概念にもまぎれもなく含まれていることです。
 これを敷衍すれば、民主主義は、すべての人が他者の信仰について知り、それらの信仰を自ら吟味する機会を平等にもつべきことを要求します。このことはつまり、ある宗教を奉じる者がもし自らそう望むならば、その信仰を社会の多くの人々に向かって発表する自由があることを意味しているわけです。特定の宗教や伝統的な生活様式のためにある種の便宜を確保したいというのが、一国の民衆の総意としての願望である場合もあるでしょう。しかし、公認の宗教が存在すると否とにかかわらず、すべての人が自分の思想を公表する権利をもつのでないかぎり、真に自由であるとはいえません。
 西洋諸国における信教の自由は、近年、着実な進歩を遂げ、宗派によっては、自分たちの宗教的実践のためにかなりの特権――たとえば兵役の免除といった事柄とか、特定の医療様式を拒否する権利とか、彼らにとっての聖なる日の勤労の免除とか――を要求するようになっています。こうした特権のいくつかは、カトリック教徒が国民の大多数を占めている国々や、フランスのように比較的世俗的色彩の濃い国々で、徐々に認められるようになったものです。
3  それが今日では、西欧民主主義の伝統からすれば周辺的な諸国――ポルトガル、スペイン、ギリシャ、アルゼンチンなど、いずれも右翼政権であった、したがってまた通例は宗教的にも不寛容であった政権の国々――においてすら、一般に認められるようになっています。
 今日では、逆に、民主主義が行われているというのは名ばかりで、思想・言論の自由が最も禁止されているのは、左翼政権の諸国です。これらの国々では、プロレタリアの意識こそ真の意識であるとする詭弁と、マルクス・レーニン主義を代用的宗教にすることによって、思想の検閲が欺瞞的に正当化されているのです。
 布教活動が公的に禁止されると、宗教的知識の普及は著しく妨げられるわけですが、そうした禁止にもかかわらず、なお宗教思想は広まり、宗教への帰依が密かに続けられるという事例もあります。宗教には迫害の連続の中で成功してきた長い歴史がありますし、また、いくつかの社会主義社会では、その国の政権以外には何らの政治的代替物もないために、国家を別とすれば、宗教が最も主要な、そしておそらくは唯一の忠誠の的となって、人々の支持を集めているようです。そこでは、宗教が、国家に対する事実上の異議申し立てとまではいかなくとも、国家からの自主独立性をある程度まで表明できる唯一の活動として、政治的反対を代弁するものにすらなりうるでしょう。

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