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罪の意識  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  罪の意識
 池田 ユダヤ教やキリスト教、またイスラム教においては、罪の意識が仏教の場合よりもはるかに強いように思われます。
 もちろん仏教の場合も、罪に相当する概念がないわけではありません。しかし、仏教では、たとえば自分が悪いことをしたため、その報いを受けるということであって、それは誰かの怒りに触れるということではありません。つまり、自分の犯した悪事に応じた、苦の報いを受けるという“因果応報”の法に基づいていると考えるわけです。
 ところが、ユダヤ教・キリスト教等においては、常識的に考えれば些細な罪悪であっても、非常な重荷として受けとめられることが多いように思われます。この背景には、私は、絶対的な神の概念があると考えます。つまり、些少な罪でも、神の怒りに触れることによって、どのような大きな苦しみに落とされるか分からない、という考え方があるのではないでしょうか。
 このような“罪”についての厳しい受けとめ方は、悪いことをしないように戒めるにはきわめて有効でしょうが、やむをえず悪いとされることをしてしまった場合にも、取り返しのつかないことをしたのだという重圧感と、そこから、場合によれば自暴自棄の気持ちを起こさせてしまうことも考えられます。
 私は、これは、移り気な暴君のもとで生活している人々と似ているように思います。それに対して、仏教徒の場合は、普遍的で公平な法律のもとで、この罪にはこの程度の刑罰が、あると分かっている立憲政体に生きる人々になぞらえられると思います。
 このような対比と観察に対して、教授はどのようにお考えになりますか。
2  ウィルソン 伝統的なキリスト教の概念によれば、神は、悔い改めないすべての罪人を、未来のある時期に罰するとされています(刑罰の時は定まっておらず、各終末論の体系の違いによって異なります。すなわち、刑罰は死の直後に行われるのかもしれず、あるいは現在の神の摂理の終末まで、つまり、聖書によれば、周到な審判の手続きがなされるまで延ばされるのかもしれないのです)。大多数のキリスト教徒は、因襲的に、不信仰者や悔い改めない罪人は、死後に永劫の苦しみの場である地獄か、少なくとも罪の重荷を“徐々に取り除く”場としての煉獄に追い(注1)やられるものと信じていました。
 しかし、カトリック教徒の間では、神への取りなしという概念が、広く信じられていました。この取りなしは、神の刑罰の厳しさを和らげるため、イエスによって、もしくは処女マリアや聖者たちの弁護によってなされるものとされていました。プロテスタントは、この世の人々の身代わりに罪を背負ったイエスの受難を強調し、イエスへの信によって罰を免れうることを強調しました。しかし、教会外の者には、そうした希望は一切ないとされたのです。
3  中世においては(また、おそらくはもっと後代にいたるまで)、一部のキリスト教徒は、たしかに些細な違背に対してすら非常な心配を味わい、なかにはとてつもない骨折りの末に肉欲を克服したり、自己放縦へと赴くあらゆる性癖を抑制する人たちもいました。現代にあっては、こうした傾向は大きく衰退しています。今日のキリスト教徒は、かつてのキリスト教徒に比べると、個人的な罪の意識に捉われることがはるかに少ないのです。
 西洋諸国では、“罪”に取って代わって、それとは異なった“悪”の概念が発達してきました。“悪”は、いまや個人的な悪行というよりは、むしろ社会制度の欠陥から生じるものとする見方が一般的になっています。つまり、いわゆる社会制度の機能不全によって、一部の人々が生活上の剥奪に苦しみ、そこから反社会的行為に走ると考えられたのです。
 そこではもはや、刑罰はその矯正手段とは考えられなくなります。刑罰に代わって何らかの形の治療法が提唱されます。道徳観はこうしてある面では“政治化”しつつあり、広い意味での思想や行動に、悪のレッテルが貼られています。たとえば男女差別とか人種差別といった事柄に関しては、社会の政策に責任の一端があることになります。西洋の社会はいまやきわめて世俗化しているため、“罪”という本質的に宗教的な概念は、大部分の人々にとってほとんど重要性を失っているのです。

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