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快楽としての性  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  快楽としての性
 池田 性は長い間、人類という種の存続を図るものとして存在してきました。もちろんそこに快楽はありましたが、一般には、種の存続をもたらす行為の副産物として認められていたのです。
 ところが、特に最近は、生殖としての性を排除し、コントロールして、純粋に快楽としての性のみを追求する傾向が顕著になってきました。そこには、通常のパターンを超えた形態までも出現しており、しかもそれは先進諸国において、徐々に増加しつつあります。こうしたことに、教授は何らかの感想をおもちでしょうか。
 また宗教によっては、快楽としての性に対し、あからさまな嫌悪を示し、抑圧しようとする場合もあります。私は、このような人間の性のエネルギーに対して、外からの規制(法や規範)といった形での抑止は、かえって隠微なものとして、歪な形での噴出となってしまうように思います。しかし、犯罪や極度の退廃に結びつく放縦も、人間にとって害悪でありましょう。そこには、相互の愛情と、人間性の尊重を前提としたものがなければならないと考えます。これについてもお考えをお聞かせいただければ幸いです。
2  ウィルソン 人間を含めて、動物の性的満足を求める欲望と生殖作用の関係は、本質的に、種の存続を確保するために働く、自然のままの仕組みです。そこには絶えず激しい情欲や闘争が付きまといますが、これを例証しているのが、動物の行動パターンに見られる縄張り確保であり、異性を巡る争いであり、あるいは(群居本能のある動物同士や、人間同士でも中世イスラムのハーレムの場合のように)性の権利の独占であり、さらにはいま論議の盛んな産児数の制限問題も、じつはそのよい例なのです。
 近代医学の発達は、その初期の段階において幼児の死亡率を減少させ、その結果、性的快楽の追求が、急激な人口増加という予期せぬ結果をもたらしました。近代的な産児制限の技術が発達する以前、人口過剰を抑制していたのは、(資源との関連から)飢饉による無作為の餓死や病気の高発生率であり、さらには種々の社会的規定の方策がありましたが、それらはどれ一つ、今日、私たちにとって感心できる解決策ではありません。
3  たとえば、エスキモーの間で行われた年配者による自発的な居住地の放棄(つまりは自殺)、世界の多くの地域で行われた(往々にして一妻多夫制に関連しての)女児間引きの慣習、古代世界における幼児、特に身体に障害のある幼児の遺棄、それに人工中絶などがそれです。
 いま私は、一般性の少ない順に挙げましたが、いずれも、個人の生命を、本来あるべきよりも早い時点で終息させる方法です。これらの事例に、はからずも同様の効果をもたらしたもう一つの付随的なものとして、自発的な独身主義の慣習を含めてよいと思います。これは、いくつかの社会で人口の少なからぬ部分を占めた人々――たとえば中世ヨーロッパ社会の司祭・修道士・修道女など――が実行していたことです。
 マルサス(注1)は人口過剰の危険を社会に警告し、婚前の貞節、婚期の延期、結婚生活における節制を、妥当な予防策として奨励しました。
 十九世紀末以降、産児制限技術の効率が大いに高まったため、ますます多くの人々が、家族の規模と子供を作る間隔を計画的に決められるようになり、人口計画における幅広い、近代的な社会政策への展望が開かれました。もちろん公権力は、子供を産もうとする親に対しては、アメとムチを振るう以外にはほとんど何もできません。つまり、ある場合には(ナチ・ドイツにおいて、またフランスでも時折行われたように)、特別の恩典や社会的な名誉を与えて、人々がもっと子供を産むように仕向けるか、あるいは、別の場合は(最近数十年間にインドで、また中国でも時々行われたように)、人々に子供を産むのをやめるよう、うまく説得するかの、いずれかしかないのです。

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