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性善説と性悪説  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  性善説と性悪説
 池田 人間の本性を善と見るか悪と見るかということは、古来、宗教・哲学の重要なテーマでした。現今では、心理学において、この問題が、しばしば避けられない課題となっています。
 周知のように、儒教では荀子が性悪説(注1)、孟子が性善説(注2)を唱えています。キリスト教では“原罪説(注3)”を説きますが、これは性悪説に近い考え方ではないかと思います。また、心理学では、フロイトは性悪説に傾いているのに対し、ユングは性善説に近いように思われます。マスローなどは、明確に性善説を唱えています。
 仏法では、一人の生命の中に性善・性悪が、本来、ともに具わっていると捉え、仏という最高の生命状態においてさえも、性善と性悪が包含されていると説いています。したがって、人は常に自己の生命に内在する善なるものを伸ばし、強化するとともに、悪の面を抑制する努力をしなければならない、というのが基本的な考え方になります。
 しかも、この仏教の特質は、悪なるものの抑制は、外からなされるのでなく、個々の生命の内側から主体的に行われなければならない、と考える点にあります。つまり、悪をコントロールする力を、各個人が養っていくことが肝要であるとするのです。
2  一般に、自己の悪い面を抑制する手段としては道徳が考えられますが、道徳的知識はどんなにたくさん積んでも、そのままでは行動の規範にはなりえないと思います。その理由は、人間の行動が、理性に従う以上に、感情・情動によって左右されるからです。主として理性に支えられている倫理的な意識を情動の力が踏みにじってしまうことは、日常的にも経験されるところです。
 私は、倫理的意識のはるか内奥から突き上げてくる情動の嵐を、どのように克服していくかという問題こそ、宗教の課題であり、倫理を支える基盤となるところに、宗教の役割の一つがあると考えるのです。
3  ウィルソン 善と悪とは、私には本質的に相対的なもののように思われます。したがって、人間を生来善ないし悪なるものと考えることは、その前提として、人間の性向が評価されるような、何らかの規範的脈絡を仮定して初めてなされることだと思うのです。この規範的脈絡は、どうしても社会的なものとならざるをえません。なぜなら、道徳の範疇が定められ、道徳律が各個人に伝えられ、欲望や行動の是か非かの判断力が個人に与えられる等のことは、すべて社会の中で行われることだからです。
 人間各個が、生まれながらに自己充足への強い衝動を具えていることは確かだと思います。そして、その衝動には食物、温かさ、愛情などへの欲求だけでなく、性欲や、さらには、特に欲求が満たされないときに発揮される攻撃性なども含まれています。
 そのような衝動は、ときとして、他の個人の欲求や、また社会生活の秩序ある規制の必要性と対立するものとなり、その場合は、こうした衝動はたちまち悪と判断されてしまいます。というのは、社会の利益のためには、そうした個人的衝動は抑制され、自制され、あるべき方向へと導かれるべきことが必要とされるからです。

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