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人工受精について  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  人工受精について
 池田 一九七三年以後、いわゆる“試験管ベビー(注1)”がイギリスとインドで試みられ、話題を提供しております。
 人工受精には種々の形が考えられますが、現在、試験管ベビーといわれているのは、卵管の閉鎖や癒着が治療困難である等の理由で、妊娠は不可能であるが、どうしても子供がほしいという人のために、卵巣から数個の卵子を取り出し、体外の、試験管内で受精させて後、子宮に返して成長させるというもののようです。
 この場合、精子は夫のものが使用されますし、妻である女性の子宮で生育が行われますから、夫婦の絆や子供とのつながりも、自然の場合からそれほど離れていないといえます。しかし、他人の子宮を借りて生育させるとか、夫が無精子症のため、他の男性の精子を使用する、あるいは、人工子宮を使用するなどという場合には、さまざまな問題が生じることが考えられます。
 教授は、このような人工受精に関してどのようにお考えでしょうか。また、宗教は、どのような関わり方をすればよいとお考えですか。
 私は、まだ、現在の時点では、純医学的な問題――たとえば、排卵による卵子の傷害等をどのようにして防ぐか――は残っているにしても、方向性としては、試験管内における受精は認めてよいのではないかと思います。ただし、この方法以外に、子供を得る道が閉ざされている場合に限ります。
2  他人の子宮を借りるという場合は、そこに複雑な倫理的問題が絡んできますし、子宮を貸す側の女性の心情を考えれば、どうしても賛成できません。また、人間的愛情以外の、金銭的問題や、それにまつわる人間のエゴが出てくる恐れがあります。
 私は、人工受精という科学技術を活用するにしても、その基盤に、強い夫婦の愛情がなければならないと思います。そうでなければ、生まれ出る子供を、人間らしく育てることもできなくなってしまうからです。
 あくまで、人工受精は手段であり、夫婦本来の深い愛情を養うことが、すべての根本であろうと思います。もし、愛情が失われていれば、人工受精という科学的恩恵自体が、人間のエゴのために使われるものとなってしまうでしょう。
3  ウィルソン この問題に関しては、私は、あなたが提起して述べられたのとまったく同じ考え方をしています。あなたと同じく、私も、女性が、自分の子供とならない胎児への便宜のために、子宮を貸すようなことがあってはならないと思います。これは、人類の品位を下げることであり、堕落させることですらあると思われます。
 しかし、また一面では、そうした、特殊な生物学的理由から、通常の方法では妊娠できない女性が、医学の助けによって付随的な障害を克服できる見通しが開けてきたことは、一般に歓迎されています。世の人々は、こうしたすべての女性が、社会の助けによって、夫を父とする子供を産めるようになり、通常の親子関係を享受できるようになるかもしれない、と考えたがるものです。倫理上は、こうした人工受精は、帝王切開で子供を産む女性の場合と、多くの点で変わりありませんし、帝王切開手術は、長い間認められてきています。

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