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植物人間について  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  植物人間について
 池田 米国でのカレン裁判(注1)以来、植物的状態にある人間について、人間の尊厳という問題と絡んで、論争が巻き起こっています。
 具体的には、植物人間(注2)の人工延命装置を、どのような時点まで続けるべきかという問題です。特に、患者は植物状態で入院したままであり、回復の見込みさえおぼつかなく、しかも、家族がこの装置を外してほしいと主張した場合など、問題はきわめて複雑になってきます。
 教授は、このような場合、家族の主張に従って、延命装置を外してもよいとお考えですか。それとも、植物人間もまさに生きているのであるから、人工装置を外して死なすわけにはいかないとお考えでしょうか。
 私は、植物状態の人間も、脳幹で生きている生命だと考えることを根本とすべきではないかと思います。大脳生理学の知見によれば、現在の脳波検査で、その波形がフラットになったとしても、それはただ、大脳皮質の脳波を測定したにすぎないことが分かっています。脳波が消失しても、その人間は脳幹で生きているのです。生と死の境界で必死に生きようとしている人間生命の状態が、いわゆる植物人間ではないかと考えております。
 もし、脳幹で生きている状態、つまり植物人間を人間と認めなければ、非常に重大な問題を引き起こすでしょう。つまり、重度心身障害者や精神薄弱といった人たち、また、胎児性水俣病のようう(注3)な人たちも、その生きる権利を否定されることになるからです。
 私は、植物人間も懸命に死と戦い、生きようとしていると考えるところから、すべての方向・処置を決めるべきだと思います。そのうえで経済的負担や看護等は、社会全体のコンセンサスを得る方向へと進むべきだと思うのですが、いかがでしょうか。
2  ウィルソン 医学技術が発達するにつれて、カレン・アン・クィンランの場合のような悲劇的事例が増えることを、予期しなければならないと思います。逆説的ですが、人間が生命をその極限において維持する方法を知れば知るほど、死の淵にある生命を維持する方法をどこまで開発し、利用するかという問題は、ますます大きくなると思います。
 クィンラン事件は、まことに強く心を打つ事例です。なぜなら、カレン・アンは、酸素補給装置を外してからも、十年近く生き続けてきたからです。これは、「植物人間も懸命に死と戦い、生きようとしている」とされる、あなたのお考えに力点を与えるものです。
 この問題に関しては、私自身、考えが大きく二分している思いでおります。一方では、個人の生存を引き延ばす見込みのある進歩は、すべて歓迎されることです。しかし、他方、精巧な技術によらなければ生命が維持されないという場合、その技術自体が臨終における個人の“人間の尊厳”を著しく侵害していると考えられることがあり、そうした場合には、親族にとって苦悩と煩悶のもとになるということです。
 もちろん、病気の治療に関しては、滅多に口にはされないものの、宗教的な観念との、倫理上のジレンマが古来根強く存在してきました。
 すなわち、一方で、治療は古くからの宗教的技術であり、特にキリスト教では、始祖(イエス)の信仰上の初期の名声が築かれるうえでも、その後の弘教にあたっても、おそらく決定的な役割を果たしました。病人を治癒させ、ハンセン病の人を浄め、悪魔を追放し、死人をも蘇らせることは、初期キリスト教の根本的な特色であっただけでなく、キリスト教徒が行うように命ぜられた奇跡でもあったのです。他の宗教の場合も、人々は健康を祈ることを学び、精神的・肉体的な幸福増進への助けを自己の宗教に求めてきました。
3  しかし、他方では、人間は臨終の時を定められている、つまりゴッドやアラーがその計り知れない知恵によって、そうした事柄を定めているのだという考え方が一般にあり、たしかにユダヤ教・キリスト教・イスラム教の伝統を継ぐ諸宗教においては、人間は、神の摂理とされる事柄に不当に干渉することを望んでよいのかという疑念が、時々表明されています。しかし、世俗化の進行と医療効果の増大とが相まって、そのような疑念は沈静されてきました。人生は悲嘆に満ちており、神は人間を試すために苦難を与えるのだという、運命論的要素を含んだ古来の宗教的主張は、現世での充足が最大の関心事であるような社会に変わるにつれて、後退してきたのです。そして、医学上達成できる成果が、完治とまではいかないにせよ患者が少なくとも肉体的・精神的機能の大部分を回復できるところまでの治癒を見込めるようになると、倫理的な問題が騒がれることはずっと少なくなりました。
 しかし、今日、再び起こってきている問題は、別の角度からのものです。医学が(必ずしも人間味ある技術としてではないにしても)専門科学として大きく発達してきたため、いまや人類は、非個人的にしか人間と関わりをもたないまったく科学的・技術的な装置に、一個の人間の人格をどの程度まで依存させるのが適切なのかという、潜在的な葛藤に直面しているのです。

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