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安楽死について
「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)
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安楽死について
池田
現今、日本でも安楽死(注1)に関する論議が盛んになっています。末期のガン患者のような、見るに忍びない苦痛であるならば、安楽死を施すことがかえって人間らしい行為ではないかという心情が、安楽死肯定論者にはあるようです。
そうしたことから、これを法的に認める安楽死法案を検討すべきだという声もあり、そのための具体的な作業も、ある種の人々によって進められています。
たとえば、安楽死のための条件としては、
① 死期の切迫、
② 耐え難い苦痛、
③ 二人以上の医師によって不治と診断されたこと、
④ 安楽死は医師により、苦痛のない方法で施されること、
⑤ 患者自身の死にたいという希望が明確であること、
などが挙げられています。
当然のことながら、安楽死肯定論の焦点は、本人の自由意志に基づくという“任意性”にあります。この任意性に基づく安楽死ならば肯定してもよいという意見について、教授はどのようにお考えですか。肯定論者は主要な論拠として、人間の“死ぬ権利”を挙げていますが、人間には生きる権利とともに死ぬ権利もあるとお考えでしょうか。
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この“死ぬ権利”に関連して、“尊厳死”という論議があります。苦しみの生、植物的な状況の生は人間としての尊厳を損なうものであるから、意識が消失する前に、自由意志で自らの死を選択しておこうという考えに基づくものです。
私は、たとえ任意性に基づく安楽死であっても、それを認めることはきわめて危険性が大きいと考えています。一歩間違えば、かのナチスが行ったような強制的安楽死へと転落しかねないからです。
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ウィルソン
ある人が、自分の愛する者が長期にわたる苦悶の末に死ぬのを目の当たりにしたとすれば、その個人的経験が、安楽死の問題に対するその人の反応に多大の影響を及ぼすのはもっともなことだと私は思います。これは、死がいまやまるで性的タブーででもあるかのように考えられるようになっている現代世界において――少なくともアメリカや、またある程度まではヨーロッパにおいて――特にいえることです。
人々の態度に興味深い逆転が起こったのは過去五、六十年の間のことです。それ以前にタブー視されていたのは、生命の始まりに関すること、つまり、性や出産や、その他これに関連したあらゆる事項でした。ところが今日では、生命の終わり、つまり死がタブーになっているのです。これは、葬儀のやり方の著しい変化によっても分かります。以前、死は、社交的盛儀を行うべき出来事であり、死者は(キリスト教では逆の指示をしているにもかかわらず)生前に得ていた地位にふさわしい装いで埋葬されたものです。
ところが、今日では、死者は大急ぎで始末されます。死に関連したかつての慣習は省略され、ときには無視されています。人々は死に当惑し、遺族に向ける言葉についてさえ戸惑うのです。ビクトリア時代のきちんとしたしつけを身につけた淑女は――イギリス人でもアメリカ人でも――性を忌み嫌い、その言葉を口にすることさえ嫌がるものとされていました。これとまったく同様に、われわれはいまや死を忌み嫌っています。死が社会的慣習としきたりの構造によって囲まれていた時代には、人間にとって死に直面することは、比較的容易でした。
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