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ガン宣告の問題点  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  ガン宣告の問題点
 池田 日本でも、死にいたる病の代表としてガンが増加しており、いまでは死亡原因のトップを占めるまでになっています。それにつれて、本人にガンであることを知らせるべきか否かという問題が、医師にとって重要な論議の対象になっています。
 ガンの治癒率は徐々に上昇しているとはいえ、現在の状況では、適切な早期治療が行われた場合を除いて、再発の問題も含めれば、ガンは、一応死を覚悟しなければならないことの多い難治の病といえましょう。
 したがって、患者本人は、やはりガンであることを知らされれば、死の恐怖に叩き落とされます。そして、ガンと宣告されると、そのショックが強いために、医学的に生きられると考えられる期間よりも、早く死を迎える人も少なくないといわれています。
 このような事例も考えたうえで、ガン患者にはその事実を知らせるべきではないという考え方に、日本の医師は特に強く立ってきました。しかし、欧米、特に米国では、ほとんどの場合、本人にガンであることを宣告していると聞いています。日本でもしだいに、“告げるべきである”という声が高まりつつあります。
 死が迫っていることを知ることによって、自分に残された時間を充実したものにできるという例もあり、死にゆく本人には、真実を知らせることが人間としての誠意であり、義務でもあるという意見が強まっています。
 私は、通常の場合は、やはり本人にはガンであることを知らせるのは控えて、しばらく状況を見守るほうが、患者自身にとってもよいのではないかと考えます。しかし、もし患者が確固とした信念をもち、死生観を確立している場合には、ガンであることを教えてあげたほうが、死に対する本人の心構えも違ってくると思われます。
2  ウィルソン この点についてあなたの言われていることは、まさに最良の助言であると思われますし、私も、患者自身に関する知識をもとに判断されなければならないと思います。
 なかには最悪の知らせに耐えられる強い精神力と弾力性をもち、死期が近づいていることの自覚と、ガンがもたらすおそろしい苦痛や合併症への知識からくる、最初の激しい苦悩に対処する方法を直ちに習得する人々もいます。しかし、そうでない、もっと弱々しい人々は、もしその病名を知らせなければ、少なくとも残された最後の数カ月間を、折々の慰め、希望、そして喜びさえ感じて生きるかもしれないのに、病名を早い時期に知ってしまったために、その数カ月を絶望状態で生きることになるかもしれません。こうした人々にはショックを和らげるよう、注意して対処しなければならないでしょう。
 しかし、どの人が弱々しく、どの人に弾力性があるかを、それ以前の観察から判定することは必ずしもできないということを、私たちは認める必要があります。健康時にはしっかりしていて機略に富んでいるように見えた人が、病に伏すと精神的に弱々しくなる場合もあります。反対に、日常の生活では折れた葦のように頼りなげに見えた人が、それまで想像すらできなかった内面的強さを見出し、発揮することもあります。
 したがって、私は、どんな場合にも明白に事実を告げるべきだとは考えませんが、個々の場合について、いずれの道を選ぶべきかを決定するのは困難であることを認めざるをえません。人間の生活は、思いやりや愛情を伝える繊細な技術を磨くことによって洗練されたものになるのです。したがって、状況がどうあれ、また伝える相手が誰であれ、事実をはっきりと大胆に伝えるよりも、ときには慎重に考慮し、延期し、静かに自制することのほうが、究極的に価値ある場合もあるのです。しかし、こうした助言が、人を欺く卑怯なことで、絶対的価値を放棄することだと受け取られかねないことも明らかです。
3  私自身としては、この種の判断を単純に正しいと認めることはできないと思います。状況によって、判断は変えなければなりません。そして、たしかにありのままの事実を伝えることが理想であり、他の条件が異ならないかぎり、それがわれわれに課せられた義務であると主張することはできます。しかし同時に、場合によっては、ありのままの事実を伝えることを至上の義務とする考え方の修正を迫るような、別の価値も存在するということを私たちは認める必要があります。
 事実、誰だって、いつでも自分の知っていることを全部話すとは限りません。そうすることは危険でさえあり、ときには無分別であり、往々にして不親切な行為にもなりかねないからです。イギリスの俚諺に「刈りたての小羊には風も穏やか」(弱い者には不幸も軽く訪れる)というのがありますが、私はこれも一理あると考えています。

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