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医の倫理  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  医の倫理
 池田 日本では、昔から“医は仁術”といわれ、仁の術、すなわち慈愛を込めた治療の術でした。しかし、残念ながら今日では、人間と人間の人格的交流を基盤にした本来の医療行為は崩壊の危機に瀕しており、人々の医師への信頼感は薄れ、“医は算術”と皮肉られる状態になってしまっております。こうした医師の倫理観の喪失の原因を考えてみますと、一つには、人間としての医師自体にあることは当然ですが、また、現在の医療制度のあり方、さらには現代医学そのものにもあるように思います。
 現代医学は、高度の科学技術を基盤にしていますが、この立場では、医師は、患者を対象化し、客体として分析する、冷静なる科学者であることが要請されます。しかし、元来、現実の医療行為には、人間らしい感情の通い合う人間関係が要請されます。温かい人間性がそこに通じ合っていなければ、人間を治療する医師としての役目は果たせないはずです。にもかかわらず、現代の医師は、高度の技術をもった科学者であろうとするあまり、人間らしい心情を無視する結果になっている場合も往々にしてあるようです。
 私は、医師が冷静な科学者であるとともに、情愛に富んだ思いやりのある人間性を養い、科学技術の要請に釣り合うだけの深い倫理観を培うためには、どうしても宗教的信念が必要ではないかと思うのです。なぜなら、もちろん、その宗教の内容によってもいろいろの相違がありますが、深い人間愛をもたらす宗教は倫理観の基盤となりうるものであり、そうした宗教的信念を源泉とすることによって、温かい人間性を培うことができると思われるからです。
2  ウィルソン 医学においても、それに付随する予備的・補助的な学問においても、専門化が急速に進んだことによって、治療法の性質にも、それに対応して顕著な変化がもたらされました。
 医師といえば、かつては、自分が当然よく知っている人間として患者を扱った一種の万能人間でしたが、今日では、多くの場合、範囲の限られた技術者であり、むしろ人間を扱うのではなく、せいぜい「興味深い」症例を扱うにすぎなくなっています。この“症例”とは、専門家が扱う身体または精神の一部分を指すものであって、一人の人間全体を指すものではありません。
 現代テクノロジーの発達によって、医師は、ますます病院で働くようになってきています。大きな病院では、医師は、診療のために必要とする資材が得られるからです。開業医が自宅や患者の家で仕事をしている姿は、ますます珍しい光景になりつつあります。
3  池田 その通りですね。いま教授が述べられたことは、現代医学の診断のあり方を見ても明らかです。高度に発達した検査技術によって、医師は客観的な診断が可能になりました。たとえ患者を直接診なくても、検査結果を分析し、判断がつくようにさえなっています。
 しかし、このような診断のあり方が、ともすれば患者を人間としてではなく、たんなる物、症例として見るような傾向性を、医師に植え付けていくことになっているのです。患者のほうも、医師との人格的触れ合いがないため、医師への人間的信頼感を失うことになりがちです。
 これに対し、東洋医学においては、同じような病気でも個人によって症状は全部違った経過をたどっていくし、また、日々、患者の症状は変わっていく、ということが前提にされます。したがって、その症状の変化に応じて治療のあり方も変えていかなくては、具体的なその患者の病気を治すことはできないとされます。東洋医学ではこれを随証治療といいますが、このことが、東洋医学の患者に対する基本的態度となっているのです。
 これは、東洋医学だけでなく、古来の西洋の医学でも同様であったと思います。人間の心身両面の治療が行われるには、やはり、こうした医師と患者の信頼感に立った、古来の診察法や治療法を見直していくことが必要だと思います。

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