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平和への貢献  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  平和への貢献
 池田 平和は人類共通の目標であり、あらゆる国がこれに貢献すべきなのは当然ですが、どうしてもそこで起こってくる難問として、防衛の問題があります。平和を求めているのは誰しも同じですが、もしも一方的な攻撃を受けた場合、それに抵抗できないようではならないと考えることから、防衛のための軍備を許すことになり、そこから軍備競争が発展していきます。軍備をもっているために、小さなことが引き金となって、容易に戦争へ踏み込んでしまう温床になることも確かです。
 日本においても、第二次世界大戦後、永久に戦争を放棄することを謳っておきながら、防衛のための自衛隊を認めてしまいました。軍備縮小を図り、撤廃にまで進めなくてはならないのは、人類全体の責務でもありましょう。
 私は、戦争を愚かなものとするうえにおいて、一つの感想をもっております。それは征服して得られるもの、また征服されて失うものは何なのか、という問いに発しています。権力によって他国の民衆を抑えつけ、支配下に置こうとしても、はたして文明のすべてにわたって、それは可能でしょうか。
2  たとえ言語を変更させ、風俗習慣を押しつけたとしても、もし被征服国民が高い文化をもっていた場合、征服者は、権力的には優位に立っていても、やがてはその被征服民の文明に吸収されてしまうことも、長い歴史を眺めた場合、よく見られる現象です。
 中国において、漢民族を征服した他民族が、自分たちの風俗習慣を強制しようとしながら、結局は中国の文明に同化していった事実を、私たちは知っています。インドにおいて、ガンジーが、武力によらないで徹底した抵抗を貫き、ついに独立を勝ち取った例も、周知のところです。
 もちろん、ヒトラーに見られるがごとき、殺戮に狂奔する権力者が出たときは、人類のすべての決意として、それと対決しなければならないのは当然ですが、私は各国の指導者は、権力、武力による支配が空しいこと、最も大切なことは文明の涵養であり、精神の深化こそ、外界の変化に影響されず、永続した財産となることを知るべきであると訴えたいのです。そして、これこそが平和への底流となるものであり、宗教は、この点について、何よりも貢献しなければならないと思っていますが、いかがでしょう。
3  ウィルソン すでに述べましたように、かつて宗教は、戦争の口実として、つまり国家がその戦争政策を正当化するのを助ける機関として、しばしば頼りにされてきました。世界的宗教の中では、キリスト教とイスラム教について、特にそれがいえます。
 しかし、現在では、イスラム圏内の少数の国をたぶん例外として、その他の国々では“聖戦”という考え方は、全般的に廃れたといって差し支えないでしょう。私たちは“聖戦”という用語が、たんにつじつまの合わないものであるだけでなく、まったく鼻持ちならない言葉であることに気付いています。
 昔に比べて、今日では、宗教が戦争の引き金になる可能性がはるかに少なくなっていることは、喜んでいいかもしれません。しかし、だからといって、必ずしも宗教が、平和確立を助ける、ことさら強力な力になりそうだということにはなりません。今日の国家は、自国が巻き込まれる紛争について、宗教による正当化を少しも必要としません。このため、宗教は、国際紛争を生じそうな問題についての論議には、以前ほど関わりがないように見えるのでしょう。また、このこと自体、宗教指導者が諸国の軍縮政策に影響力を発揮することを、難しくしているのかもしれません。

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