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宗教と全体主義  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  宗教と全体主義
 池田 教授は『現代宗教の変容(注1)』において「キリスト教徒が一般に『信仰の時代』(theageoffaith)と考えている時代、例えばインノケンティウス三世の時代(中略)教会は社会の道徳上の枠組を管理したばかりでなく、政治的、法律的、商業的、そして社会的な交流の公的な過程――すなわち、社会を制度的に運営する公的な過程をも支配していた」時代であると述べておられます。
 このような状況と、近代の全体主義国家一般に見られる状況との類似性を、教授は認めておられますか。社会の秩序が、“宗教的に規定された”世界と、それがイデオロギーによって規定された世界とでは、本質的にどのように異なるとお考えでしょうか。
2  ウィルソン インノケンティウス三世時代のローマ教会の支配と、近代の全体主義国家の支配を比較するという考えは、私にはありませんでした。しかし、ただいまのご指摘によって、この両者にはいくつかの明瞭な類似点があることに、私も気付きました。
 両者の意図、すなわち、社会生活のあらゆる側面をできるだけ規制して、一定の秩序を押しつけようとする点は、たしかに類似しております。しかし、そのための手段となると、明らかに相違点があります。
 教会は、その権能を発揮するためには、社会的な強制力の手段を独占的に握っていた世俗権力を通じて行わなければなりませんでした。教会による制裁のあり方も、(近代全体主義国家のそれとは)違ったものでした。たしかに、教会は、世俗社会の刑法や政治法に対しても強い影響力をもってはいましたが、その主たる武器は(地獄という)威しと(天国に関する)甘言でした。実際問題として、教会は実効性の面でも劣っていました。(読み書きの技術という)事実上の独占部門をもってはいましたが、教会の意志伝達の手段は限られていたのです。世俗機関に依存しない場合は、教会の支配力は、その地方の代表者たちにとって規範となる権限に頼ったわけですが、彼らの道徳上の誠実さは、その信仰上の献身にかかわらず、必ずしも当てにならないものでした。
3  これに対して、近代イデオロギー体制は、その職務者の道徳的資質に頼るよりは、むしろ組織的な制裁や強制力、威嚇などによって、人々の従順さを厳しく要求することに依存しています。
 もちろん、悪評高い官僚主義の非能率性はどんな全体主義体制にもつきものですが、政策遂行上の地方によるバラつきは、近代的伝達手段によって、また、道徳面よりもむしろ技術面での操作によって、(教会に比べて)より効果的に、中央から統制することができます。
 したがって、宗教的に規定された社会秩序と、イデオロギー的に規定された社会秩序の根本的な相違は、宗教の社会化の性格の相違であるわけです。
 あらゆる宗教は、その倫理的価値の内面化に頼っています。これは、たとえその宗教が外的・社会的服従を強いるために、なんらかの付加的手段を用いる場合であっても、変わりのないことです。中世において、ローマ教会は、頻繁に強圧手段に訴えましたが、それは結局、自由意志の大切さを特に強調するキリスト教倫理の精神には、馴染まないものでした。政治的イデオロギーにとっては、こうした束縛の限界に出合うことすらありません。

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