Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

愛と葛藤  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

前後
1  愛と葛藤
 池田 世界における種々の宗教の歴史は、正統的権威を行使するのは誰かについての、論争の歴史であったともいわれます。そこから、分離・分派の動きや内部対立がしばしば発生し、妥協と離反が絶え間なく続いてきたわけです。
 分派ということについては、仏教も例外ではありませんが、分派同士が暴力で抗争するということはありませんでした。たとえば、仏教の場合、開祖ゴータマ・ブッダがその八十年の生涯を閉じた後、百年ぐらいたってから、仏教教団が大きく二つに分裂するという事件が起きています。
 その発端は、教団の規定する戒律の解釈を巡って、より進歩的なグループが、柔軟な方向を取り始めたことによります。このとき、教団内の保守的な長老たちが、進歩的なグループの解釈を“違法”と断定し、ここに、保守派と進歩派の間で論争が激化し、結局は、この両派は分裂するにいたります。すなわち、保守派は上座部、進歩派(注1)は大衆部(注2)とそれぞれ呼称して、仏教史上有名な根本分裂が、ここに起こったのです。また、この根本分裂が源流となって、さらに後代の西暦紀元前後に部派仏教(注3)と大乗仏教の分裂が起こり、今日まで流れを引く、仏教の二大潮流が形成されております。
 このように、仏教の歴史においても、分離・分派の動きや内部対立が発生していますが、興味深いことに、仏教の場合、武力を使った激しい暴力的抗争にまで及んでいないことが、歴史的事実として挙げられています。否、それどころか、仏教の歴史は異端の勝利の歴史であると述べる学者がいるほど、分派の動きや異端の存在に寛容で、平和的なのが、仏教の特色といえるようです。
 さらにいえば、この寛容性は、仏教の特色であるだけでなく、これを生み出したインドの民族的・土壌的な背景にまで及ぶものかもしれません。また、インドの仏教自体が、暴力的抗争をともないやすい世俗権力と一線を画していたことも、大きな理由かもしれません。
2  それに比べて、キリスト教の場合は、愛をその主要な精神として説くにもかかわらず、激しい暴力的抗争を重ねてきました。もちろん、現実には、世俗権力同士の抗争が絡んでいるわけですが、それにしても、なに故にキリスト教の“愛”は、離反した人々の相互理解の力となりえないのか。そこに根本的な“愛”の限界が感じられるのですが、これについて、教授はどうお考えでしょうか。具体的に離別しかかったセクトの芽が、愛や“対話”や“相互理解”によって、もとのさやに納まった事例はあるのでしょうか。
3  ウィルソン おっしゃる通り、キリスト教の歴史は、創始者が「(攻撃されても)報復してはならない」とはっきり命じているにもかかわらず、平和的というには程遠いものでした。
 ローマ教会は、戦争のつど決まってその戦争を正当化するために頼りにされてきました。それは、十字軍のように、明らかにキリスト教の権益のためという場合もありました。しかし、多くはそれよりも世俗権力側の、自らの大義名分に宗教上の裏付けがほしい、ないしは少なくとも教会の保証を得たいという願望に梃入れするためだったのです。世俗君主の正統性を認めるために広く行われていた教会への援助懇願、教会自体が世俗的な権力を蓄積したこと、そしてローマ教会が、時折、独自の権限をもつ世俗的公国として行動したこと――これらはすべて、教会がどこまでキリスト教徒間の戦争や世俗的紛争に関わっていたかを、ある程度説明づけるものです。もちろん、ローマ教会としては、そうした軍事上の関与にはヤハウェ神の役割に由来する古来の先例がある、と主張するかもしれません。『旧約聖書』では、神ヤハウェは、決まってユダヤ民族の戦闘努力を助ける民族神として描かれているのですから――。

1
1