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布教活動のあり方  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  布教活動のあり方
 池田 布教は、宗教にとって欠くべからざる実践の一つです。自らの信ずる宗教が人生の根本的な生き方を教えていると自負するならば、それを自身の満足に留めておくことは、ある意味では悪になるからです。
 ところで、布教のあり方については、上からの布教、つまり上流階級や権力者と結びついたり、大規模な宣伝をしながら浸透していく方法と、下からの布教、つまり宣教師などによって地道に布教していく方法とに、大別されると思います。しかし、後者の場合も、教会や寺院に人々を集めて聖職者が説教等を行うわけですから、聖職者主体ということは両者に共通であるように思います。
 私たちの布教方法は、それと方法を異にしています。すなわち、一般会員が主役であり、個人と個人の触れ合いを通じ、対話によって意識変革を行うというやり方です。いく人かが集まって話し合いの場をもつにしても、きわめて少人数によって、懇談しながら目覚めさせていく、という方法をとっています。このやり方は、迂遠に映るかもしれません。しかし、この方法は、一つの熱が冷めると跡形もなく消えてしまうような脆いものではなく、一人一人の強い自覚と信仰心に根差した強さをもっていると信じております。
 宗教の布教のあり方について、教授はどのようにお考えになりますか。
2  ウィルソン おっしゃる通り、宗教には、布教が、暗黙の要素として含まれております。もっとも、入信の見込みのある人々を求める際に、相手を選り好みする宗教(たとえば、ヒンズー教とか、何世紀もそうした選り好みをしてきたユダヤ教等の民族本位の宗教、それに、黒人諸民族が現在行っている運動のいくつか)もありますが、たとえそうした場合でも、これは同様にあてはまることです。信者となるにふさわしい外部の人々を改宗させることは、宗教のもつ強い志向性です。事実、人々を改宗させるという働きは、たんに新しい会員を加入させるばかりでなく、布教活動に携わる人の信仰と献身を、一層強めることにもなります。
 現代の世界においては、権力によって宗教が強制される可能性は、ずいぶん少なくなりました。近代国家は、もはや宗教を政治権力の重要な付属物とはみなさず、自国民の宗教の選り好みには、ますます無関心になっています。徹底したカトリック教国や、(一、二の例外はあるものの)イスラム教国においてすら、ときには特定の宗派への抑圧がなされることがあるにしても、上からの宗教の強制は、全般的に減少しています。
 多くの支配者たちもまた、うわべだけの服従は強制的手段によって誘発できても、宗教の効果的な運用はあくまでその信者たちの自発的な献身によるものだということに、まちがいなく気付いています。強制的に教義を吹き込んでも、宗教の信仰や実践を流布するうえでは、せいぜいきわめて限られた、部分的な結果しかもたらすことができないのです。
3  私は、私自身の調査から、現代の世界における最も効果的な布教の手法は、大集会によるものではないということに確信をもっています。西洋には、まだこの教義布教のパターンに従っている組織が、いくつかあります。彼らにとっては、大集会は感情が少なからず高揚される機会であり、改宗者たちは、伝道者の言葉に酔っている間は、自己の感情を自発的に、率直に表現するよう奨励されます。その効果は多くの場合、ドラマチックであり、参加者にとって、そうした行事は往々にして非常に忘れ難いものとなります。
 しかし、この種の伝道活動の効果は、概して短期間しか続きません。確信を得たと宣言させるための刺激は、そうした信念を持続し、その信念が必要とされるべき人生を送る努力に比べれば、不釣り合いなほど安易なものです。人々は、自己の心情と思考に最初の変化が起こるまでは、あまりにもその団体に馴染んでいませんし、また、その時点では、信仰へのそうした参画が、深く考えた場合いったい何を要求するのかについても、あまり自覚していないものなのです。
 たとえ改宗者への行き届いたアフターケアがなされたとしても、そうした布教キャンペーンで決意を述べた人々の大多数は、やがてもとの心境に後戻りし、新たに受け入れた信仰を捨て去ってしまいます。彼らが改宗したはずの最初の伝道集会に比べると、その後に参加する教会での実生活は、必然的により平静で、活気にも欠けています。そうした活気のなさから、多くの人々に失望感が生じ、結局は離れていってしまうことになるのです。

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