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日蓮大聖人・池田大作

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権威主義解消の道  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

前後
1  権威主義解消の道
 池田 宗教はその教義に関して権威を主張することから、その組織のあり方も、権威主義に陥りやすい傾向をもっています。そして、そのため、多くの宗教において、個人の救済を目的としながら、実際は、権威主義的組織の中に個人は埋没し、圧殺される場合が数多くあったように思われます。この宗教組織のもつ権威主義的傾向というものを解決する方法としては、どのようなことが考えられるのか、それについてお聞きしたいと思います。
2  ウィルソン 権威主義に陥るという、宗教がもつ潜在的な傾向は、おっしゃるように、宗教はその教義の真実性の故に、超越的な権威を有するという典型的な主張から生じているのでしょう。
 キリスト教は、神の権威とか神の御言葉の権威なるものにしばしば依存しつつ、その権威によって権力を付与されていると主張する者に完全に服従すべきであるという要求を、正当化してきました。絶対の真理を具えているという主張が、絶対の服従を命ずるという主張にたやすく変じたのです。宗教指導者たちは、多くの場合、彼ら自身が説き示した教えや、その名においてすべてを告げていた神そのものを、自身の権威の源泉としていました。
 いくつかの場合、たとえばローマ・カトリックの場合などは、教会は、権威主義的な方針のうえに打ち立てられています。それによって、絶対的服従が確保されているのです。また、プロテスタントの諸教団の場合も、ある程度の民主的な行き方は公約しましたが、やはりなお権威主義を免れてはおりません。
3  しばしば“勤労者階級の権威主義”と呼ばれてきたもの、つまり下層階級による強力なリーダーシップの要求は、ウェズリー(注1)やその後継者バンティングの専制的支配下での、初期メソジスト運動の顕著な特徴をなしていました。この運動には民主的な救済論があり、それによればどんな人も救済され、天国への道が保証されるのですが、この理論は、メソジスト教会自体の独裁的な統治形態と結合していました。地方レベルにおいてすら、各グループの中心者たちはかなりの権限を振るっていました。
 ただ、メソジスト運動が、完全な権威主義的運動に硬直化するのを辛うじて免れたのは、おそらく、その機能と権益を、地方教会の管理に当たる管財人と、そこで比較的短い期間のみ説教する聖職者とに、分割したことによるといえましょう。きわめて民主的な宗派とみなされ、正式な牧師職が存在しなかったクエーカー教(注2)においてさえ、非公式ながら一定の強力な指導体制が発達しましたし、同様の現象は、ブレズレン運動(注3)のいくつかの分派でも生じています。これらのケース、またその他についても、文献的に証明することができますが、そこからどのような教訓が得られるかは、すでにかなりはっきりしているでしょう。

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