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宗教と人間教育  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  宗教と人間教育
 池田 宗教教団は、新しく入ってきた人々に教義や精神を教え、その人々が信仰の喜びを感じ、自ら布教しゆくよう育てなければなりません。そこには、教える人と学ぶ人との関係が生じ、組織が形成されていきます。
 そこで、教団内に布教という使命感が生き生きとしており、教える人と同等、あるいはそれ以上に力ある人に育てようという目的観がある間は、組織はその宗教の発展に貢献できるでしょう。ところが、組織の維持だけが目的になり、外へ向かっていく使命感が失われると、教える側は自らの権威を守ることにのみ汲々とし、学ぶ人々との間に常に落差を保っていこうとします。
 学ぶ人々は、そのため、自ら外へ出て布教に立つだけの自信をもつことができず、運動の発展は停滞し、内側での相克が活動の主なものになってしまいます。つまり、組織が、そこでは真実の運動の推進に対する妨げになってくるのです。
 そこで大切なことは、組織を自らの権力欲や権威保持の手段としないことであり、組織上の立場を目的としないことです。しかし、そうした欲望は人間の本性的なものとしてあり、組織は、その存在自体が、そういった欲望を掻き立てる働きをするといえましょう。
 したがって、もちろん、人間をこれらの醜い欲望に囚われないよう導くことが宗教本来の役目ですから、そうした教育や精神の徹底がなされなければなりませんが、同時に、常に、布教運動の展開という、外へ向けての活動目標を設定していかなければならないでしょう。この問題は、私自身、苦慮してきたことでもありますが、教授のご意見をうかがえれば幸いです。
2  ウィルソン 宗教的献身をどう維持するかということは、あらゆる信仰に常につきまとう問題です。これは特に、ある種の人々、そういってよければ信心慣れしている人々の間に生じる、独善的な態度にはっきりと見られます。私は何年か前、あるインタビューで、自力で成功したある実業家の話を聞いたのを思い出します。
 その実業家は「あなたは信仰心が篤いですか」と尋ねられて「ええ、もちろんですとも」と、答えました。「では、よく教会に行くのですね」とラジオのインタビュアーが尋ねました。すると彼は「いや、とんでもない。私にはその必要がないんです。だって、私はもう信仰心が篤いんですから」と答えていました。
 この問題がもっと切実になるのは、宗教運動が、教師格になった一般信徒に依存し、そうした人たちがさらに新来者に教義を弘めるようになったときです。なぜなら、あなたもご指摘になった通り、教師が自己満足に陥ったり、優越感に囚われたりすると、信仰を伝えたり、新しい世代の会員を集団活動に適合させたりするための過程が、破壊されてしまうからです。
3  これは、世俗的な教育の領域でも、きわめて頻繁に生じる問題です。教えるということは、必然的に、大部分が反復的な作業です。生徒が学ばなければならない知識には、一定の基本的な体系があります。よき教師は、生徒がそれぞれ到達しているところを出発点として、彼らを教育しなければならないことを知っています。教師に課せられた仕事とは、自己の優越性を強く押し出すことではなく、生徒の潜在能力を認めていくことです。生徒はいずれ、いつの日か、教師を追い越すかも知れないのです。教師の任務はまた、できるだけ多くの知識を「理解させる」ことでもありません。むしろ「このうちどれだけのことを、生徒は自分のものにできるだろうか」と、絶えず自分に問いかけることにあります。
 生徒の中には、基礎知識のいくつかについては、ゆっくりと繰り返し教え込まなければならないのに、いったんその壁を破ると、のみ込みが早くなるという者もいるでしょう。生徒の伸びが遅い時点で、もし教師が彼を軽蔑してしまったら、その生徒は、永久に壁を破ることができないかもしれないのです。
 教師は、絶えず自己批判をし、他の人々の必要としていることを感じ取り、各個人を識別して、それぞれの相違点を知るとともに、なかんずく教職の最終目標に献身することが要求されます。ところが、不幸なことに、教職につきものの、まったくの反復性に飽き飽きしてしまう教師も出てくるのです。これは、ひとつには、あまりにも自分自身を“学科を教える者”とみなしており、“人間個人を教育する者”としての十分な自覚に欠けるためです。このため、彼らは学科にばかり目が向きすぎ、生徒そのものに目を向けることが、不十分となるのです。彼らは、馴染みの薄い生徒を教えるという難題には時間をかけず、自分の熟知した学科を教えることに、あまりに力を入れすぎるきらいがあります。

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