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政治と宗教  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

前後
1  政治と宗教
 池田 古い時代には、いかなる社会にあっても、政治と宗教とは緊密に結びついていました。
 これは、一面では有益な結果をもたらしましたが、反面では大きな弊害を生み出したことも否定できません。特に、近代においては、弊害面への強い反発から、国家権力と宗教の分離が、各国とも共通して原則化されているようです。
 そうしたなかで、私たちは、本来の宗教運動から発展した一つの運動形態の中から、公明党という政党を生み出しました。
 このことについては、今日でも賛否両方の世論があります。私自身も、この運動は、それに携わる人々がその原理と守るべき規範を誤るならば、過去の事例と同じような弊害面を生ずることを認識し、戒めていかなければならないと考えています。
 その場合、私は信仰を持った政治家は、その宗教のもつ他者への思いやり、人々の幸せのために貢献しようとする精神のみを汲み出すべきであり、他者を束縛したり強制したりしてはならないと考えます。
 こうした、政治と宗教の関係について、教授の豊富な知識と、そこから得られた英知のなかから、ご教示をいただければ幸いです。
2  ウィルソン 現代世界においては、国家制度や、あるいはその国家の中で権力を握る政治家が、かつて宗教がその重要な機能として提供していたような正当化を必要とする国は、もはやほとんどありません。
 かつての国家を単位とする社会の形成期や、あるいはそれ以前の帝国形成期においては、政治的拡張が行われたり、指導者が権威の正当性を主張する場合、ほとんど必ずといってよいほど、組織化された宗教の指導者によって付与される、超自然的な力による保証を必要としていました。
 すなわち、最高位の聖職者が皇帝の頭上に王冠を載せ、皇帝の行う戦争を正当化し、皇帝が名乗る称号を合法化しました。そして皇帝の遂行する政策を認証し、支配者の名において行われるものについては、何であれ、神の命令であるとしたのです。
 一方、政治指導者たちも、たんなる君主制では満足せず、神聖な地位を自ら要求することも珍しくありませんでした。これは、実際、あまりにも頻繁に行われたため、私たちは、世俗君主の神格化をはっきりとした趨勢として見てとることができます。
 最近の数世紀の間に、こうした宗教と政治機関の結びつきは、弱まっています。民衆の声が、神の声に代わって、近代国家における首長の正当性の源泉となっているわけです。この傾向は世界の二大強国、無神論のソ連と世俗的なアメリカに、共通の現象です(もっとも、アメリカでは、宗教は、今日でももちろん栄えていますが、本質的に私的なこととされ、州政府や連邦政府との結びつきからは一切分離されています)。
3  ヨーロッパでは、宗教と政治の結びつきは、イングランド、スコットランド、スカンジナビア諸国等の国教会では、引き続き残存しています。しかし、こうした国々ですら、両者の関係は、あくまでも宗教と王政の間だけのことであり、その王政もいまや純粋に政体上、名目上のもので、もはや現実の政治権力の焦点ではありません。こうした両者の結びつきは、聖なるものの、きわめて象徴的な二つの表現形態の結合であるといってよいでしょう。
 西洋諸国の宗教は、国家が強力になるにつれて、公的な問題に対する影響力を失ってきています。もっとも、ヨーロッパのいくつかの国々では、キリスト教の価値観に立脚していることを明確に宣言している政党もあります。しかし、彼らがそうして宣言しているのも、実際には、彼らが種々の世俗化の措置に反対し、また概して教会を支持していることを有権者に思い起こさせながら、たんに歴史的な意義を留めるためだけの、名ばかりのジェスチャーにすぎないようにも見えます。

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