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ガンジー主義への評価  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  ガンジー主義への評価
 池田 ガンジー(注1)は、インドをイギリス帝国主義支配から独立させるために、非暴力抵抗主義を唱え、自ら実践して、ついにインドの独立を勝ち取りました。これは、彼の宗教的信条ともいうべきものから出た実践ですが、考えてみると、宗教的信条を根底にしながら、激しい暴力主義に陥った運動はたくさんあります。歴史上に見られるほとんどの運動が、そうであったといってよいでしょう。
 これに対し、ガンジーは、物質的な力に対する精神的な力の優位を信じ、それを実践したのでした。私は、同じこの精神は、真実の宗教精神を体現したさまざまな人にも見られると思います。
 西洋では、ソクラテス(注2)がそうでしたし、イエス自身もそうでした。聖フランシス(注3)の思想と実践も、結局は、ここにあったのではないでしょうか。
 東洋では、釈尊や日蓮大聖人が、あらゆる暴力的迫害を受けながら、非暴力の戦いを貫きました。それはまさしく、物質的な力に対する精神的力の戦いでした。しかも、みごとに勝利をおさめたのです。
 このように、創始者たちは非暴力の強靭な精神の戦いを貫いたのでしたが、後継者たちは、多くの場合、暴力を使う安易さに負けてしまいました。
 その意味で、ガンジーはこれらの創始者たちに並ぶ、偉大な人格者であったといえると思いますし、彼の精神と実践は、誰よりも各国の権力者たちが受け継いでほしいと願っています。それが、人類を悲惨な絶滅から救う道に通ずると思うからです。
 教授の、ガンジー主義に対する評価をうかがえれば幸いです。
2  ウィルソン ガンジーが行ったような消極的抵抗運動の優れている点は、たしかに、ある特定の信条を推進しようとする者や、抗議を表現しようとする者の側に、非常に高度な自己鍛錬、公平な精神、客観的視野などが要求されるということです。
 あらゆる形態の政治的抗議にまつわる根本的問題は、自分たちは正しいと強く信じる人たちが、その感情に身をまかせて暴力や破壊の行動に走る傾向があるということであり、彼らはときとして、目指しているはずの目標にまったく反する行動をとる場合さえあります。
 もし、自由の獲得のため、外国の支配者からの独立のため、あるいは基本的人権のために戦っている人たちが、彼らの抵抗を非暴力で通すよう自らの行動を規制できるならば、彼らの自己抑制の徳は、それ自体の価値によって、彼らの信条に道徳的重みを加えるに違いありません。
 もちろん、そのような自制心を涵養することは、理性と寛容の風土の中で教育された教養人にとってさえ、難しいことです。ましてや、教育を受けていない人々にとっては、そうした自己抑制は、はるかに難しいことです。彼らは、抑圧されているという意識を抱いているため他のすべての価値を認めることができず、そのため目標を達成するためのいかなる手段も、彼らの情熱によって正当化されてしまうようです。
3  しかし、ある人々は――ガンジーもその一人でしたが――その厳格な自己抑制の徳の故にこそ、まさに偉大ともなり、尊敬を得てもおります。そして彼らは、自らの主義のために暴力に訴えることを認めた他の多くの国民的・政治的英雄の中にあって、傑出した存在となっています。しかし、そうした自制心強き指導者に感服し、褒めそやす人々が、必ずしも彼らと同じ高潔な倫理的勇気や、卓越した振る舞いを示せるとは、もちろんかぎりません。いわゆる“聖者”は、人々にとって真似のできる手本となるよりも、むしろ、当初、本人が標榜した価値基準とあらゆる点で対立する行動のスローガンに、その名前が利用されることのほうが多いのです。
 私にとってガンジーが重要なのは、彼の政治的・道徳的抗議の技術面での模範としてよりも、むしろ、ある種の、最高度に洗練された自己抑制の模範としてです。自己の感情の束縛を断ち切るためには、質の高い自己抑制と同時に、高度な自己批判や自己反省を必要とします。それはまた、人々に、人間関係の行為においても不可欠であり、あらゆる社会的発展のためにも不可欠なものとして、秩序と礼儀と他人への尊敬が必要であることを、認識するよう求めます。
 自分にとって最も深い関心事を、じっと冷静に見つめることができるということ、また、自分の力の限りの努力さえも評価されずに終わってしまうかもしれない立場に、わが身を晒せるような寛容、忍耐、内的資質を身につけること――これらは、きわめて高度に洗練されていることを示すものです。
 感情を交えずに、安定感のある、粘り強い、しかも、一歩も譲らない態度で取り組んでいくということは、倫理的振る舞いの頂点を極めたものといえましょう。人間の最も奥深い感情が掻き乱されるときにどう振る舞うかが、私たちがどこまで洗練されているかの尺度なのです。

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