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日蓮大聖人・池田大作

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生命の尊さ  

「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)

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1  生命の尊さ
 池田 殺人を重罪とする考え方は、あらゆる民族、個人において、本然的意識としてあるように思われます。それは、生命を何物にも代えられない宝とする生存本能から出ているものではないか、と私は考えています。
 そうしたなかで、生命にこそ最も本源的かつ普遍的な尊厳性を認め、この生命自体に探究の眼を向けたのが仏教です。仏教によれば、あらゆる生き物にとって何よりも尊いのが生命であるが故に、これを奪うことは重い罪になるのである、ということです。
 それに対して、キリスト教などの絶対的な創造神を根本とする宗教においては、神の創造になる生命を奪うことは、神の心に背く行為であるが故に罪になる、という論理になると思います。しかし、このことは、極端に言えば、もし神の心に背いた人間であれば、その生命を絶つことは、神の業の手助けをすることになり、罪とはならないのみか、むしろ神の栄光につらなる行為になることを意味すると思います。
2  私は、過去の西洋における宗教戦争や異教徒に対する残虐な攻撃、異端審問に見られる残忍さなどは、こうしたキリスト教の論理から出たものではないかと推測します。そして、キリスト教的神への信仰が薄れた現代も、それに代わって、国家的正義やイデオロギー的正義が絶対者となり、往々にしてそうした正義の名のもとに大量殺人が正当化され、美化されているといえないでしょうか。
 したがって、私は、いかなる正義も、生命を尊厳とする論理に優先することはできないという考え方が、たんに民衆の間にばかりでなく、国家権力を保持している人々の胸中に、しっかりと確立される以外に、個々の殺人も、国家的規模の殺人である戦争行為も、根絶できないと考えます。そのためにも、生命の尊厳性を真っ向から説いた仏教の果たしうる役割はきわめて大きいと考えていますが、教授は、どのようにごらんになっているでしょうか。
3  ウィルソン 西洋史の長い推移の中で、キリスト教の倫理は、たがいに大きく異なる、また時にはまったく相反する命題を支えるために、引き合いに出されてきました。イエスは人々に「(一方の頬を打たれたなら)もう一方の頬をも向けなさい(注1)」と命じましたが、これは、平和主義と無抵抗主義の両面を暗示する教説です。イエスはまた、汝の兄弟を「七たびを七十倍するまで」許せとも言っています。
 しかし、そのイエスの教えを継いだ教会は、その最盛期において、正義の戦いのためには、またなかんずく教会とキリスト教徒の君主を守るためには、人々に、殺人をも辞さないよう要求してきました。死刑執行人たちもまた、教会が制定し、あるいは裁可した法的手続きに従って行動するよう要求されたときには、そうした仕事を、義務として引き受けなければなりませんでした。このような場合における殺人は、正当と考えられたばかりでなく、おそらくは殺されるべき者の魂に恵みを与えることでもあるだろう、と考えられたのです。また、教会が特定の君主や民族国家と固く一体化したとき、殺人の宗教的正当化は、ときとして純粋な政治目的に利用されました。

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