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日蓮大聖人・池田大作
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神の意志と人間の理性
「社会と宗教」ブライアン・ウィルソン(池田大作全集第6巻)
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神の意志と人間の理性
池田
哲学は、人間が理性を行使して、人生や世界について思索することから始まります。それに対して、宗教は理性による思索を排斥するもののように思われています。
たしかに、神の教えや命令に従うことを根本とする絶対神の宗教においては、人間がその理性を用いることは、神に対する反逆となる場合が少なくないでしょう。しかし、仏教では、仏陀自身、その理性・英知の限りを尽くして宇宙と生命の真理を覚知した存在であり、人々にも、仏陀と同じく覚知に到達すべきことを教えています。
この場合、仏教では、哲学はその一部を占めるものとして、それなりの不可欠の意味をもっています。仏陀の教え自体、きわめて哲学的なものです。
もとより、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教においても、その神学が根幹になって哲学が発達しましたが、哲学的思索が占める信仰上の位置は、仏教に比べて低いのではないかと思います。この点について、教授は、どのようにお考えになっていますか。
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ウィルソン
いま、あなたが述べられたことは、私もまったく事実だと思います。たしかに、仏教が一つの哲学的な体系として発生したのに対して、ユダヤ教と、そこから派生したキリスト教とイスラム教は、人間の姿をした神の専横な命令によって世界が支配されているという、本質的に素朴な概念にその起源があります。
この“最初に創案された”形のままの“神の摂理”には、明らかに、哲学的な論議や推測を加える余地は、ほとんどありません。特に旧約時代のユダヤ教やコーランを墨守するイスラム教にあっては、生命や宇宙を抽象的に論述したり哲学的に解釈することよりも、社会の規則や個人の振る舞いを律する掟を詳細に記述することのほうに、より大きな関心が払われていました。
しかし、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つの宗教的伝統においては、信仰を維持するうえで、いずれも人間の理性の力が着実に大きな位置を占めるようになってきました。幸運なことに、ユダヤ人の離散が、祭司を主たる担い手とし、神への犠牲を中心的儀礼としたその起源から、ユダヤ教を解放しました。ユダヤ人の日常生活には、まだ具体的な規則がその主要な関心事として根強く残ってはいましたが、より知的なラビ(注1)たちの間では、哲学的な概念がしだいに発展していきました(しかし、同時に、あまり高い知性をもたない人々の間では、非常に迷信的で呪術的な思考法も発達していったのです)。
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中世には、ギリシャ思想から新たな刺激を受けて、キリスト教哲学が開花しました。そしてその教理はすべて、教会が聖書から取り出したものでした。そのため、この哲学の命題の考察は、キリスト教教理の枠内に限られていました。これに対して、近代の西洋哲学は、その淵源を、キリスト教の思想家たちが神学に照らしてあてはめた思想を飛び越えて、より直接的に、ギリシャの伝統に求めています。イスラム教の場合も、その極度の律法主義にもかかわらず、論理学や数学の卓越した学派が興隆し、さらには一種の総合的な学識ともいえるものが導き出されました。
この学識が、キリスト教やキリスト教以後の保護者のもとに、ついには最高度に完成され、より自由な形で開花するにいたったのです。
ユダヤ・キリスト教的伝統における哲学的思索の仕方は、ヒンズー教や仏教的伝統とは別種のものでした。キリスト教の場合、強力な教会の存在によって、聖職者が関わり合ってよいとされた思弁的な哲学の範囲が制限されていたことは確かです。そして、聖職者の中には、自ら編み出した哲学的体系のために、教会当局と衝突した例もあります。もちろん、傑出した神秘主義者もいましたが、その神秘主義の表明も――それは往々にして疑問視されましたが――教会組織の認可を得るためには、教理の期待するところに従わなければなりませんでした。
概して、西洋の哲学者たちが教会の独特な神学上の関心事から自らを解放するにつれて、彼らの思索は、物質的世界とその説明に関する諸問題に向けられていきました。そして、より実際的な技能や経験的探究法に関連して、特筆すべき哲学の一派が発達してきました。ピューリタニズムの影響で、宇宙を支配することへの関心が哲学的探究にきわめて実用的な傾向を与え、近代の科学・技術の発達に刺激を与えたのです。
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